★私はかっての神戸商大、今の兵庫県立大学の野球部卒業である。 昨年だったか『90周年の記念イベント』があったのだが、 今回『100周年に想いを馳せて』 淡水球誌を発刊するので、 『何か当時の想い出話』を書けと言う依頼があったのである。
期限は9月20日とあったのだが、 私はなんでも放っておくのが嫌な性分で、昨日纏めて送ったのだが、 このブログにも掲載して、当時の野球のことなど、ご紹介してみたい。
以下、送った原稿のままである。
今は兵庫県立大学野球部になっているが、私が入部した昭和27年(1952)は神戸商科大学野球部だった。OBの中でももう最古参に近いところにいるのだが、そんな70年も前の昔話の一端を纏めてみたい。 私が入部した昭和27年(1952)当時は、私は明石高校出身なのだが、兵庫高校・加古川東・加古川西など兵庫県の高校出身者が多くて、特に兵庫高校は主将の剣持さん以下、田中・半田・家城・鎌田さんなど所謂神戸二中の人たちが多くて、当時の兵庫県は今と違って公立高校が強かったし、兵庫高校も明石高校も所謂『甲子園出場組』だったし、加古川東・西高なども東播では明石と並んでの強豪校だったのである。2年上のキャプテンが太田武郎さん、マネージャーが多田和昭さんというOB会お馴染みのメンバーで同期には田中・岩田・原などの他、マネージャーで西馬、1期下が小野田・戸田・大村・山下・財田などなどいいメンバーだったと思う。
当時は関西6大学と近畿6大学があって、関西6大学は西宮球場で、近畿6大学は甲子園球場でリーグ戦が行われていたのである。近畿6大学には近大がいて常に優勝していたのだが、神戸商大はその中では2、3位というそこそこの成績を残していた。 当時は兵庫県の夏の大会の予選も甲子園球場だったし、私が生涯一番多くプレイした球場は甲子園球場というウソのようなホントの話なのである。
私は1回生からレギュラーでショートを守っていたのだが、打撃よりは守備の方では結構自信もあったし、華麗に守れていたと自分では思っている。ところが、2回生の秋のリーグが終わってから肺浸潤になってしまって、3回生の春は休んで、それ以降ももう一つ自分のプレーには打ち込めなかったのだが、1年上の竹下章さんが軟式野球出身だったこともあって、チームの指揮などもとっていたのである。
昭和31年(1956)に卒業のはずだったのだが、健康のこともあって1年卒業を伸ばしたのだが、当時の野球部長田中先生に頼まれて、5回生の時は正式にチームの監督をしていたのである。
この時のメンバーは1回生に小山修身くんが入部して、ひょっとしたら野球部史上一番実力的には揃っていたかもしれない。 秋のリーグには近大には惜しくも勝てなかったが、小山が市大2-0、工大1-0、工大0ー0、経大4-0、経大5-0と5試合連続、完投完封して、連続53イニング無失点という「学生野球日本記録を樹立」したりしたのである。
小山ー戸田のバッテリー、南・山下・岡田・橋本の内野陣、米沢・財田・大村の外野陣など、今考えても相当なチーム力だったと思うのである。
私が4回生の時のメンバー表があるので、添付しておこう。
それとその時のリーグ戦の展望記事などもあるのでご参考に。
当時は金属バットではないし、ヘルメットもなかった、昔の野球である。『昔は強かった』とOBはみな言いたがるのだが、今の野球とは『体力』が全く違う。当時の甲子園は広すぎて、プロでもホームランが出ないのでラッキーゾーンがあったのだが、少なくとも近畿6大学ではさく越えのホームランを見たことがない。そんなレベルの野球だった。
私自身リーグ戦で、『ホームランか?』と思ったほど飛んだ打球が1回だけだがあるのだが、惜しくもフェンス直撃だったのである。 私の野球人生で一番飛んだ飛球ということで、自分ではよく覚えている。
★ こんなことを書いて送っている。 大学時代は、殆ど勉強などせずに、野球に打ち込んでいたようなところがあって、 神戸商大経営学部卒業ではなく、神戸商大野球部卒と言ったほうがいい。
学生時代、ホントに野球ばかりに熱中していたように思うが、 こちらは高校時代。
大学時代の写真は、不思議なことに全くないのだが、
こちらは昨年開催された神戸商大の90周年記念OB会で 生まれて初めての『ティーバッテング』である。
後輩が連続写真を撮ってくれたのだが、 何とか『サマに』なっててよかった。
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