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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 16

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★ 『レース』は私の人生で、大きな分野を占めるのかも知れない。
 特に 『レースでの人の繋がり』 はその密度では一番かも。 カワサキの二輪関係だけではなくて、結構な広がりなのである。
 そんなレースの世界に対する『私の生き方、考え方&意見』の一端を。

   
    

私が直接、カワサキでレースに関係したのは、初期のスタートの時代の昭和37年(1962)からの4年間と、1990年代の『7万台への挑戦』の時代の2回なのだが、それ以外の時期も、いろんな形でレースとは関わりがあったのである。



★世の中は競争の世界なのだが、一番厳しいのが『レースの世界』ではなかろうか?レースで一番になるのは『ライダ一1人』 なのだが、マシンがなくてはライダーは走れないし、そのマシンは一人では造れない。そこに自ずと『チーム』が必然になるし、『チームワーク』がベースにあって、密接な『人の繋がり』が出来るのである。
だから『優勝はチーム』に与えられるものなのだろう。

野球などのスポーツの世界にも色濃く携わった時期もあるのだが、その『チームワーク』の質とその広がりの大きさなど、『レースの世界』のそれはちょっと特別なように思うのである。

レースには厳しいルールがあり、そのルールは厳守されねばならない。『時間に厳しいスポーツ』でホントに『1秒』を争うのである。
そんなレースの世界が好きだったし、何よりも、レース界にいる人たちが、なかなかオモシロいのである。
先日、現役時代は『東大出の連中といろいろ関係があった』と書いたりしたが、レースの世界は、そんな学歴などとは全く無縁なところがいい。そんな学歴など関係ない人たちとも『親しくなれる』のは私の特技かも知れない。


   



カワサキのレースがスタートしたころから、いろんな人たちと出会ったが、出会った頃はほんとに若い無名の青年だったのに、『世界の』とか『日本の』と言われる選手になって素晴らしい活躍をしたのである。

  

        

カワサキからも安良岡健・金谷秀夫・星野一義・山本隆・北川 圭一 など、私とは密接に関係があったし、
他メーカーのライダーたち、久保和夫・小島松久・吉村太一さんなどとも、親しくさせて頂いたのである。

         




『ライダーと言われる人』と初めて喋った相手は、片山義美さんだった。その時の印象は強烈で、厳しいことをいろいろ言われたが、納得できた。そんなことから、私は『レースの世界』に直接関係するようになったのである。
片山義美さんと話をするきっかけになったのは、山本隆・歳森康師の『BSとの仮契約事件』だったのだが、その時点では私はレースには殆ど関係はなかったし、二人と話をしたこともなかったのである。

    



★1990年代には、直接レースの世界にはいなかったのだが、 Team Green の重本・野村コンビを応援して、それなりの成果を挙げたし、  その当時のライダーたち 多田・杉本・宗和・塚本・鶴田・北川くんなどは、今もFacebook で繋がっているし、  従野孝司くんも、増田耕二くんも、カワサキにいたこと、ご存じだろうか? 
    

  
★カワサキの有名人『平井稔男さん』が、そのブログにこんなことを書いている。 
1984年にKHI(川崎重工業)がレース活動を凍結した時、私はコリャイカン、オートバイメーカがレースを忘れたらアカン、せめてJAPANだけでもと当時のカワ販古谷常務とKHI実験研究部武本部長(ル・マン24時間の総監督故武本 晃)に食い下がったのである。・・・・・・・・
前記のお二人に縋りメーカーの凍結との重なりもあり、TEAM GREENとTEAM38のコラボがロードレースに立ち上がったのである。
時まさに1985年ロードレースを加えNEW TEAM GREENが誕生したのである。


ちょっとだけ訂正させて頂いて、もう少しこの時の経緯をお話しすることにする。
1984年は私はカワ販から川重企画部長に既に異動していた頃で、カワ販常務ではなかったが、平井さんとお話ししたのは間違いない。むしろ私の方からのお願いだったかも知れないのである。
この時期は『川重単車事業本部』の存続がムツカシイなどとも言われた危機的状況の時代で、カワ販から私は企画に呼び戻された翌年なのである。レースはヨーロッパGPなどでKRが華々しい時代だったのだが、とてもレースを続けられる状態ではなかったので、『GPレースの凍結』を提言したのは私で、髙橋鐵郎さんが決断されたのである。
ただ、すべてを消してしまうのは? ということでそれまでは『神戸スーパースポーツ』として活動していた平井稔男さんに『Team Green の創設』をお願いし、それなりの運営費もお渡しして、この時初めて日本にもTeam Green が生まれたのである。


★さて1990年代に話を戻すと、 この時代の国内販売活動の状況や考え方を、  事業本部の部課長の人たちに話した講演会の記録の中から

     
        1990年の夏の鈴鹿8時間耐久なのだが、  カワサキのイメージキャラクター『風太』が登場していて、 NHKの衛星放送が非常に多くの時間を『風太』を映し出してくれました。
 とあるがKAZEギャルと一緒に歩いているのが『風太』なのである。
  写真が小さくて解り難いと思うが、

       

   ひょっとしたら日本で初めて 『大舞台に登場したイメージキャラクター』のはずである。  そうでなければNHKが長時間一メーカーのキャラクターなど、 追っかけまわしたりはしないのだが、 確かにこの時のNHK衛星放送は『カワサキのイメージキャラクター 風太』を  執拗に追っかけまわしたのは、まさに珍しかったに違いない。
 くまモンが登場したのは2010年だから、それよりも20年も前の話なのである。

   


 カワサキのレース活動も広報活動も  『時代の先端』を走っていたと言えるだろう。


★1990年代のその時代、 新しいソフト会社『ケイ・スポーツ・システム』      南昌吾 TEEM GREEN を中心のレース活動         重本修次郎 それを纏める 広報活動               小林 茂
 このメンバーが担当していて、この3人と私が講演者だったのである。
  『7万台の販売目標を達成』するために、 直接的な販売活動そのものよりも、その周辺分野での 『新しいカワサキのイメージ創造』を目指した展開があったから 現実に『7万台の販売』が達成できたのだと思っている。
 このあたりの発想は、私独特なのかも知れない。 部下たちは結構自由に動いているし、特にKSSは派手な動きで金も使うが、 独立会社としてその金は自らがアタマを使って産み出してきていたのである。  『プロのレベル』で動かない限り、金など産み出せないのだが、 『サラリーマンからプロへ』の脱皮は、部下を信じて『自由を与えない限り』 ムツカシイのではと思ったりもする。

 『レースの世界』で優勝するのは一番だが、 たとえ優勝は出来なくとも、それなりの価値がある運営が出来ればいい。 それは総合的な仕組みの構築から生まれるもので、 この時代は、『遊んでいたら自然に売れる』そんな仕組みの創造を目指していた。
 そんな『総合的な仕組み』の中に 末端を巻き込んだ『ネットの世界』を加えて、末端のユーザーと直接繋いだら、 『二輪の販売量の倍増』などそんなにムツカシクはないと思うのだが・・・

 世の中全てが『ネット時代』なのに 幾ら上手に大量に使っても『無料』のネットを使わぬ手はないと思うのだが、  いつまで50年も前の販売網をベースの展開に執着しているのだろうか? 四輪などでも世界の趨勢は『ネット販売』になりつつあるようだ。      
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