★ 『7万台への挑戦』の時代、それは1988年10月からのスタートなのだが、その実質的な1年目の1989年は、どんな年だったのか?
『私の生き方、考え方&意見』として纏める10回目は、 この時代の始まりである1989年の活動をご紹介してみよう。
これまで何回かの人事異動があって新しい仕事をやった経験があるのだが、振り返って考えてみると『1年目が一番成果を上げている』と言えるのではないかと思う。
こ時代のスタートの1年目は、幸運もあったのだろうが素晴らしい成果だし、何よりもスピード感を持って次々にどんどんやっているのである。
★ この時代までカワサキの二輪事業が経営的に危機的状況を迎えていたこともあって、世界の各販売会社も『黒字経営』を第一目標にしていて、国内販社も非常に地味な活動を続けてきたのだが、漸くその危機的な経営状態から脱出して、国内市場も『7万台を目標』にする積極経営を目指したのである。
88年10月1日に就任してからの1年3ヶ月の活動が、 このように纏められているのだが
より具体的に細部のご紹介をすると、 ● 88年10月1日に就任して、まず最初にやったのが国内市場での『レースの積極的な復活』をかってのレースOBや現役レース関係者を集めて、10月15日に宣言しているのである。
● 1月からの新規職制で、『スポーツ推進部』を立ち上げ、ユーザークラブKAZEが実質的にスタートを切ったのである。
●検討を続けてきた『ソフト会社ケイ・スポーツ・システム』は2月22日に川崎重工業の経営会議で承認され、動き出すことになるのである。
● 非常にラッキーだったのは3月4日にあった『鈴鹿2&4』のTTF1、750ccクラスで宗和が3位入賞を果たし、チームグリーンも250・400のクラスに出場したのである。
私や岩崎茂樹が来ているということで、4輪の星野一義や金子豊がカワサキのパドックに挨拶に来たりして、周囲がびっくりしたりするのだが、なかなかいいスタートが切れたのである。 当時のMFJの常務理事は杉沼浩さんで特別に親しい間柄だったので、鈴鹿の三原さんにも紹介してくれて、三原さんとはそれ以降いろんな形で接触も出来たのである。
● 4月1日にはKSSが正式スタートを切り、14日にはSPA直入の起工式、4月24日には『ルマン24時間』で『宗和・多田・塚本』が見事3位入賞を果たすのである。
● 5月にはZEPHYRの発表があり、全頁のイメージ広告も掲載し、これ以降ZEPYYR が文字通りの『バックオーダー』が延々と続いて、グループ全体の経緯に大きな効果をもたらすのである。
不思議なご縁で今も密接に繋がっているRPMの村島ご兄弟とは5月11日に初めてお会いしたりしているのである。
● さらに7月23日の鈴鹿6時間耐久では、北川・鶴田組が優勝、藤坂・林組が2位とワンツーフィニッシュで、漸くチームグリーンの重本・野村体制が機能し始めるのである。 7月29日の4時間耐久ではビートの髙橋・和泉チームが優勝。8時間耐久では、宗和・多田、ロブ・マーロン組はダメだったが、塚本・前田組が4位に入って、この年の鈴鹿耐久シリーズは、カワサキが大活躍だったのである。
● こんな様変わりな、国内販売会社の状況であったので、当時の川崎重工業の大庭浩社長は,この年の初めの経営会議で認可した『ケイ・スポーツ・システム』や『ユーザークラブKAZE』・『SPA直入』などは、『古谷がやるならいいか』ぐらいでの許可だったのだと思うが、
この国内市場の状況を見て、8月1日に川崎重工業の全役員、並びに関係会社社長会の70名を集めた席で、『国内状況の説明』をするように依頼があり、『遊び会社』『レース』『ユーザークラブKAZE』などなどおおよそ川崎重工業とは全く無縁のような話を1時間以上したのだが、それが非常に好評だったのである。
当時通産省から天下りで来られた常務からは『川重に来て初めて感激した』などと言われたし、ちょうどその頃、本社に異動してたた田崎雅元さんからは『何を喋ったのか?どこに行ってもカワ販の話で持ち切りだ』と私に言ったりされていたのである。
話も兎も角、内容・実績が伴っていたから、ホントにこの年は充実していたのである。
★この年の話題としてはジェットスキー新会社の話も、12月末に発足した販売店の『新ARK契約』いずれもが、日本では初めての出来事なのだが、またの機会に詳しくご紹介したいと思うが、
簡単に言うと、ジェットスキーという遊びとレースをやる商品を販売するために、従来の『ボート屋』さんではなく全く新しい販売網をゼロから立ち上げた話だし、
ARK とは Authorized & Reliable shop of Kawasaki なのだが、 その取引形態を日本の二輪業界の常識であった『委託制度』からすべて『買い取り制度』とした、これも日本で初めての制度だったのである。
そういう意味では、日本の流通業界で、カワサキは先頭を走っていたのである。
この1989年から1990年後半まで、まさに日本の先頭を走り続けたカワサキだったのである。
30代の若い頃から、『世の中ではじめて』 ということばかりをやり続けてきたので、この最後の期間も、ずっと『新しい仕組み構築』が続いていくのである。
これが出来たのは、私もその旗は振ったが、自由に動いてくれる、実力いっぱいの『好い仲間がいた』からそれが、実現していったのだと思う。
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