★ Yahooの意識調査で、こんなのがあった。
『墓は要らない』、『自然に還りたい』と考える人たちの間で、自然葬が広がりつつあるというのである。
その結果を見ても、 『散骨』が『従来の墓石を立てての埋葬』を抜いてトップを占めている。 もし、投票したりするときは、私もひょっとしたら『散骨に1票』入れるかも知れないなと思ったりした。
★ 昨日は春の彼岸で、明石の長寿院まで墓参に行ってきた。
長寿院は、明石城主松平家の菩提寺で、こんな歴代のお殿様の墓もある由緒ある名刹なのである。
三木に住んでいるので、車で40分の距離なのだが、若し私が先に逝ってしまったら、家内が墓参を若しするとすれば、『大変』というか『不可能』に近いなと思ったりする。
ずっと旧い話だが、本家の伯父が檀家総代なども務めていたこともあって、お寺とは親しくさせて頂いているし、私が本家を継がねばならぬような事情も、私が小学生の時代まではあったので、長寿院の先代の和尚さんには子どもの頃からいろいろお世話になったり、教えて頂いたりしたのだが、私自身の性格はどうもこのような旧い仕来りにはしっくりこないところもあった。
当時は、曾祖父の松平家の剣道指南番をしていたという古谷満平の墓などもあって、その数は15ぐらいもあって、場所を覚えるだけでも大変だったのだが、阪神大震災の時に、みんな倒れてしまったりして、お寺さんが殆ど整理されてしまったのである。 ある意味ホッとしたところもあった。
今は本家の祖父・祖母・伯父・伯母の本家の墓と両親の墓の二つだけである。
★ 現在は『正月、春の彼岸、お盆、秋の彼岸』と年に4回は欠かさず墓参に行っているのだが、鎌倉に住んでいる『息子の代』になるとここまで来るのは『大変』だと思うし、ましてや孫の代になると、これはとても無理なのである。
そんなことを思うと『私自身の代』で散骨などほかの方法でもいいかなと思ったりもするのだが、墓は既にあるので、そうはならないかも知れない。日本のお寺などのかっての風習は、その一族がその地に住んでいた時代の名残で、現在のように、生地と生活をする場所が離れてしまった現代では、その事情が全く違ってしまっているのである。
墓などに戒名などを刻んで残すのも、その人がこの世に生きた証左のようなものだと思うが、今の時代、墓など創らなくても、私が生きた証左は、『ネットの世界』だけでもいっぱいだし、それで充分かなと思ったりもしているのである。
ただ、少なくとも私が生きている限りは、年4回の墓参は続けようと思っているし、特に世話になった本家の伯父のためにも、ちゃんと綺麗に墓を守っていきたいと思っている。昨日も、1時間以上かかって、墓の周りの草を抜いてきたのである。
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