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2020年は カワサキ単車事業60周年   2

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● カワサキの単車事業の『創成期のレース活動』について
★昭和35年(1960)に単車事業に本格的に進出するこ決まったのだが、この船出はなかなか大変ではあったのだが、数多くの周囲の方たちの支援や、何よりも不思議とも思えるほどの『好運』が重なって、カワサキの単車事業の今があるように思う。
    


前回に記述したように、最初に上市した125B7は散々だったのである。大体、川﨑航空機の明石工場は元々がエンジン工場なので、エンジンの専門家はいたのだが、『バイクの専門家』などは居なくて当然だったのだが、そういう意味で単車のフレームなど解る人はいなかったのだと思う。最初のB7はそのフレームの欠陥で返品が相次ぎ、工場は返却車で埋まったと言ってもいい状況だったのである。
   

★ そんなカワサキの単車事業のスタートを救ってくれたのは、すぐ続けて出した125B8だったのかなと思う。B7は1年だけでやめてしまって、昭和36年秋のモータショーにはB8が出品され、37年度から発売され始めたのだが、2機種目がこんなに早く出たのは、今思っても不思議なのである。この125B8が、何となく評判が良くて、単車事業が継続された第1の理由は,この『125B8』があったからだと言っていい。
もう一つ、こんなことを言うのは私だけかも知れぬが、『カワサキの二輪事業を救ってくれたのは、本田宗一郎さん』なのである。

鈴鹿サーキットが開場したのは、昭和37年(1962)のことなのだが、この年の11月に日本で初めての本格的なロードレースが開催されて、そのレースをカワサキの単車事業の生産部門の人たちが、バスを仕立てて見学に行って、そのレースを観て『燃え上がって』しまったのである。このバスを仕立てたのは、兵庫メグロの西海義治社長だが、西海さんはそれだけには止まらず、カワサキもモトクロスをやろうと、子飼いの松尾勇さんをカワサキの製造部に送り込んで、翌年5月の『青野ヶ原モトクロス』の圧勝に繋がっていくのである。
全く不思議なご縁で、『鈴鹿サーキット』が出来なければ、その観戦もなかったし、カワサキがモトクロスに出ることもなかったのである。
この時期『カワサキの単車事業を続けるべきかどうか』を日本能率協会が調査をしていたのだが、この『青野ヶ原の圧勝』で現場の人たちの意気は燃え上がっていて、それが『単車事業続けるべし』という判断の一つになったのである。

★『125B8』は確かにカワサキの人たちの成果だが、この『モトクロスの圧勝』は、鈴鹿サーキットを本田宗一郎さんがこの年に創らなかったら、なかった出来事なのである。
さらにカワサキが初めて出た青野ヶ原のモトクロスは1位から6位まで独占するというとんでもない成績だったのだが、その後もカワサキはレースでは健闘したが、こんな成績は後にも先にもこの1回だけなのである。
これはカワサキのマシンや、ライダーが速かったのではなくて、『運がよかった』だけだったのだと思う。レース当日は雨上がりでコースの中は水貯まりばかりで、スズキやヤマハのマシンはみんな水に浸かって止まってしまったのだが、防水対策が完ぺきだったカワサキB8だけが、エンジンが止まらずに最後まで走り続けただけなのである。
私は現場には行っていないのだが、当日はヤマハで出場していた山本隆さんもマシンが止まってしまったらしい。 この話は、山本隆さんの話の受け売りなのである。

  

 兎に角、社内中大騒ぎになったのである。
この青野ヶ原のレースに関わった人たちである。
 
 60年も前の話だから、既に亡くなられた方も多いし、みんな若かったなと思う。この『青野ヶ原』のプロジェクトはこのようなメンバーで進められて、その責任者が中村治道さん、副大将が髙橋鐵郎さん、川﨑正蔵さんのお孫さんか曾孫さんの川﨑芳夫さんなど、製造関係の方たちで、髙橋鐵郎さんの右隣りが営業で私の下にいた川合寿一さんである。
その殆どが鈴鹿サーキットのレースを観に行った製造関係のメンバーなのだが、営業が絡んだのは、このレースは非公式だったので、会社からは金も残業料なども出ていなかったので、当時の営業次長だった私の上司の小野助治さんが『パンでも買うなにがしかの金』を都合して、川合さんに渡たすように指示があったのである。

★これらの写真は、実は今カワサキが進めている『カワサキアーカイブス』という単車事業の歴史を語るという取り組みがあって、私もその一人として1時間ほど、お話をしているのだが、その中からの写真なのである。

   
 このインタビューの話は、なかなかオモシロいのだが、今のところすべてを公開することが出来ないので、その一部をお話ししているのである。

★そんな『いい運』が重なって、『カワサキの単車事業やるべし』という日本能率協会の判断に繋がっていくのだが、この能率協会が『事業存続の条件』の一つに挙げたのが『広告宣伝課を創ること』というのがあって、その広告宣伝課を、まだ係長にもなってもいない私が担当することになり、当時の本社の開発費として1億2000万円もの予算が3年間支給されることになるのである。
私の年収が40万円ぐらいの時代だったから、この1億2000万円の予算がどれくらい大きかったか想像してみて欲しい。突然こんな大きな額を任されても、1年目は7000万円ぐらいしか使えずに、本社の専務から「お前ら金をやってもよう使わん」と怒られたりする始末で、当時は国内市場だけだったし、その金で『レース』を集中してやろうということになるのである。

その『レース運営委員会』というのがこんなメンバーで構成されたのである。これは間違いなく錚々たるメンバーで、その後のカワサキ単車事業も、川崎重工業の事業も引っ張ったメンバーだと言って間違いないだろう。
川﨑重工業の社長も、副社長が二人もおられるメンバーなのである。
 


このメンバーのことだけで、幾らでも書けると思うのだが、この時期だけでなく、極端に言うとこののち何十年も『単車事業の中枢』で、密接な関係が続いたのである。
ただ、当時は皆さん若くて、山田・苧野両委員長は兎も角、中村さん以下はまさに戦前の軍隊のような血気盛んな人たちばかりで、当時の中村治道さんには、下の人は『モノが言えない』雰囲気をお持ちだったし、髙橋鐵郎さんはまだ海軍兵学校の雰囲気が残っていてまさに軍人さんだったし、技術部の大槻・安藤さんは、めちゃくちゃ怖かったのである。メンバーすべてが技術屋さんで、その一番下が田崎雅元さんで、事務屋は私一人だったが、このうるさいメンバーを纏めていく事務局を仰せつかったのである。
こんなメンバーを相手に、私が何とかなったのは『1億2000万円の予算』を握っていて、レース運営費はここから支出していたからなのである。更に、私にとってラッキーだったのは、この委員会のトップメンバーの山田・苧野・中村さんが学校の先輩で、山田さんは神戸一中の先輩だったし、苧野・中村さんは明石高校のOBだったので、何かと可愛がって頂いたのである。

★こんな広告宣伝課がなかったら、カワサキのレースが創成期から活発に動くことが出来なかったのは間違いないのである。この当時のレース予算は潤沢だったので、今では考えられないようなことが出来たのである。
 当時は厚木にカワサキコンバットというクラブを作って、これを軸に国内のレース展開をしていたのだが、当時はMFJ よりもMCFAJ 関係のレースが主流で、スズキは城北ライダース、ヤマハはスポーツライダースなどのクラブチーム主流での活動だったのだが、 

カワサキはカワサキコンバットの運営に、当時月20万円の領収書の不要な金を三橋実に運営費として渡していたのである。 20万円は今の金で言うと200万円ぐらいの値打ちがあり、その金で厚木に家を借りて、全国から有望ライダーを集めて、ライダー育成に努めたのだが、メンバーも人数も、練習のやり方もすべて三橋実に任していたのである。そんな中から育ったのが、星野一義であり、金子豊たちなのである。
関西では神戸木の実クラブの片山義美さんと密接に繋がり、山本隆・歳森康師・金谷秀夫などさらには清原明彦・従野孝などが育っていったのである。みんな当時は無名のライダーだったから、大袈裟に言うと日本のレース界にも貢献したことになるのかも知れない。





冒頭に書いた、鈴鹿のロードレースの250㏄優勝者が三橋実、350㏄優勝者が片山義美で当時は二人ともヤマハとの契約だったのだが、三橋実はカワサキが引っこ抜いてカワサキコンバットを任したし、片山義美さんは神戸だったのでその傘下の山本隆・歳森康師・金谷秀夫などが創成期のカワサキのレースライダーとして、全く無名の段階から育っていくことになるのである。
当時カワサキの単車事業は競合他社に肩を並べられるものは皆無で、ひとりレース関係だけが、『気を吐いて』いたのだが、その根底には潤沢な広告宣伝費があったので、それが可能だったのである。

★ところで、『レース運営委員会』を創るように指示されたのは、当時の事業本部長の岩城良三さんで川﨑航空機工業の常務取締役でもあたのだが、その訓示では常に『隣国の兵は大なり、その武勇は優れたり、その武器は豊なり、然れども指揮の一点譲るべからず』から始まるリーダーシップ満点の方だったのである。
前述の1億2000万円の広告宣伝費の使用については、係長にもなっていない私に任されていたのだが、その報告先は職制上の上司ではなくて、直接岩城本部長に私が報告することになっていて、『レース運営委員会』の報告も、私から岩城本部長に報告していたのである。
そういう意味では、今では考えられないようなことだが、同じような時期にアメリカ市場では浜脇洋二さん(係長)が頑張っていたし、そのアメリカ市場で、シカゴで部品会社を創ったのは、私より年次では1年下の田崎雅元さんで、当時の若手は大きな仕事を任されていたのである。
       ★ こんな岩城総務部長、塚本人事課長時代のお若い頃の写真があるのだが、実はこの写真は、私のアーカイブスのインタビュー記事の中に、私が川崎航空機に入社した時の話があって、その時の面接の時に、第一声で『君は成績悪いねえ』と言われたのが塚本さんなのである。
     

 確かに大学の成績は優などは5つしかなくて、それも体育理論・体育実技という運動部の選手はみんな優、中国語1・2のどなたにも優をくれる中国人の先生の科目と、もう一つは野球部の部長もしておられた先生の科目だけだったのだが・・
私は物怖じなど全然せずに、『成績は悪いかも知れぬが、会社の仕事などなら間違いなく他人には負けずにやり切れます』と言い切ったのだが、この一言は私の現役時代ずっと私の心の中に残っていて、忘れずに頑張ったのである。この面接で途中から、『ところで君は野球をやってたな』と話題を変えて頂いたのが岩城総務部長で野球の話などで和やかになって、私は当時の砂野仁社長のコネでの入社だったのだが、砂野さんからは『君は面接だけはよかったよ』などと言って頂いたりしたのだが、現役時代は不思議なほど、その時々のTOPの方から直接指示されることが、40年間続いた不思議な現役生活だったのである。
当時の川﨑航空機も自由な雰囲気のあるいい会社だったと思うが、特に創成期の単車事業はそれぞれの若手が、自ら率先してやらないと、上からの指示などなかなか降りてこなかった、そんな時代でもあったのである。

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