★ この12月に大学の野球部の創部90周年のOB総会が神戸ほっともっと球場を借り切って行われ、いろんな催しがあったのだが、先輩たちの『ティーバッテング』などもあって、生まれて初めて、『ティーバッテング』なるものにチャレンジしてきた。
私たちの時代は、今の野球とは全く違って、金属バットも、ヘルメットもなかった時代なのである。プロ野球の選手で言えば、阪神の吉田義男が同期、長嶋茂雄は2年下である。
そんな初めての『ティーバッテングの連続写真』を後輩が送ってくれたので、自分自身のために、このブログに残しておこうと思う。
最初は戸惑ったが、何とかバットが振れてボールが飛んだので、気持ちよかった。腰が逃げてしまっているのは仕方がないが、まあ何とかボールは飛んでいる。
★70名ほどのOBたちが集まったのだが、86歳にもなると私は2番目の年長者で、『ティーバッテング』も、トップで打たして貰ったのである。
ダイヤモンド一周の計測などもあったのだが、これにも参加して、こちらは結構ちゃんと走れて『28秒で走り切れた』ので、機関誌への投稿原稿にも、『なんと学7の古谷先輩も参戦。28秒の好タイムに皆がビックリさせられた』などと書いて頂いて、大満足なのである。
球場もオリックスの神戸の本拠地の神戸ほっともっと球場で、こんな本格的な球場で野球が出来たのも、多分これが最後になるだろう。
★『私と野球』についても、何度かこのブログにアップしているが、1950年代の野球と言えば、日本国中の子どもたちが野球に熱中した時代で、私も学生時代は、勉強など横に置いて『野球に没頭』した高校・大学時代だった。
当時は『甲子園の優勝旗』が箱根を越えたことがない西地区優勢の時代だったが、兵庫県も結構強かった。不思議なことに私たちの時代は公立校が圧倒的に強くて、当時の甲子園への出場校は、神戸一中・神戸二中・明石高校・鳴尾高校・県立工業・芦屋高校などが常連校で、私立では育英高が強かったと言える時代だったのである。芦屋は植村投手を擁して全国制覇を果たしたりした。
そんな時代に私は旧制の神戸一中から、学区制になって明石高校に転校したのだが、当時の明石は、かっての中京―明石の25回戦などから『名門明石』と言われていて、昭和25年(1950)の夏には甲子園に出場した。今の兵庫県での強豪校明石商業は、当時の明石高校の商業科だったのである。 そんな明石高校で私はショートをしていて、守備はまずまずだったと自分でも思っているが、バッテングはそんなに自信があったわけではないのは、当時の野球の練習は守備のノック中心で、バッテングに掛ける時間が、今と比べて圧倒的に少なかったと言っていい。
今回『ティーバッテング』を初めてやってみて、こんな練習でもあれば、バッテングも上達しただろうなと思った次第なのである。
そんな野球の練習の違いが、今と昔の野球の『レベル差』になっていると思うし、もう一つは、『基礎体力』の体力差かなと思う。86歳の私でも、何とか走れたり、打てたりするのは、今でも『基礎体力』を鍛えているからだと思う。
★今回は、立派な写真を送って貰ったりはしたが、高校・大学時代も野球の写真は殆ど持っていない。
というより、あまり写真など撮らなかった時代なのである。野球の写真などこれくらいしかないのだが、このブログに一緒に収めておこう。
★そんな『私と野球』だが、球友たちも多くがこの世を去ってしまったし、私自身もプレーなどする機会などはないだろうから、『ティーバッテング』でも、こんな本格的な球場での写真が残せたのは幸せである。
因みに、被っている帽子はアメリカにいる娘婿が勤めている会社がエンゼルスのスポンサーをしていて、昨年大谷翔平の出た試合に『招待』されたのだが、その時頂いた帽子なのである。
こんな歳になってみて、人生最後は『体力かな』と思う。生きていても『自由に動けない』ようでは面白くない。昨今の子どもたちの『体力の低下』などが言われているが、子どもたちももっとスポーツを楽しむ時間を持つべきだと思う。
そういう意味では、今の生活でも『アクテイブに動く時間』が毎日30分以上も取れているのは、若い頃『野球の練習』などやっていて、体を動かすことが苦にならないからだと思っている。
今頃になってまた『スポーツの良さ』を見直している私なのである。
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