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戦後の野球と金田正一

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★金田正一が亡くなった。 昭和8年8月生まれだというから私よりは5ヶ月あとなのだが、ずっと金田は私より1年上だと思っていた。私が高校2年の頃には国鉄スワローズに入っていたからだが、高校を中退して入団したらしい。
 金田と言えば晩年巨人に移籍したので、巨人のイメージも強いが、弱小国鉄スワローズが金田が投げると『半分以上は勝つ』という当時の図式が印象に残っていて、私は『金田』と言えば『国鉄スワローズ』を想いだす。

         


かって昭和の初めの頃は、日本も野球のある意味黄金時代だったのだが、大東亜戦争が始まって、『野球は敵国のスポーツ』とプロ野球もなくなったし、 私は小学校の頃は朝鮮京城にいたのだが、小学校時代に野球をしたことがなく、グローブもバットも見たことがなかった。 
終戦の翌年、1946年に西宮球場で復活し、平古場昭二を中心に浪商が全国優勝をとげたのだが、どこで野球を覚えたのだろう? と思ったりした。

     

 甲子園球場は米軍に接収されていて使えなかったのである。

★ 戦後は禁止になっていた反動か、『急激な野球ブーム』になって、当時の少年たちのスポーツと言えば=野球という時代になった。 当時のプロのスターは巨人の川上・千葉、阪神の藤村などいろいろいたが、みんな戦前の選手で、戦後高校からプロ野球の選手になったのは、ひょっとしたら1950年(昭和25年)に国鉄スワローズに入団した『金田正一が初めて』だったのかも知れない。1951年には盈進高校から箱田など、他にもいろんな選手がプロに入団しているのだが、その1年前は思い出さないのである。
それにしても『金田正一の400勝』は凄いことだと思う。これは世界中、誰も破れない記録だと思う。 30勝以上を2度も経験しているし、20勝以上を連続何年続けたのだったか。当時のの投手は杉下にしても、稲生にしても凄かった。投げる回数がいまとは全然違うし、投球数など当時は言う人もいなかった。
 それでも、最後まで投げ切れて、現実に400勝もしているのを見ると、今の科学的野球は『ちょっと言い過ぎかな』とも思ってしまう。

★ちょうど金田が国鉄スワローズに入団したころ、伯父の楠見幸信が国鉄スワローズの総監督をしていて、未だ長嶋が立教の大学生の頃だったが、『金田と長嶋は二人ともモノが違う』とよく言っていたが・・・ ホントに二人とも他の選手とは格の違いを見せつけた。
そんな長嶋がプロに入っての金田との初対戦、『4打席4三振』は、今でも語り草である。
      
 
私は『金田の投げる試合』は何度か見たことがあるが、話したことは一度もないのだが、『会った』ことはある。入団した年の甲子園での阪神戦の家族券の切符を伯父に頼んだら、甲子園の入口まで来たら、『そこに届ける』というので、入口で伝えたら、入団したばかりの金田正一がわざわざ券を届けてくれたのである。お礼を言っただけで、何も喋らなかったが、めちゃくちゃ背が高かったのが印象に残っている。
その当時の金田の印象で残っているのは、試合前のストレッチで、めちゃくちゃ体が柔らかくて『180度開脚』で、ぴたーとアタマが地面に着くのである。今の選手は、それくらいはできるのだと思うが、当時の野球選手で、そこまで体の柔らかい人はいなかったと思う。

★そんな金田だが、なかなかの好人物で、永年バッテリーを組んでいた根来と一緒に、当時渋谷にいた伯父宅によく遊びに来ていたらしい。
『金田と根来の話』はよく聞いたし、金田も国鉄スワローズ時代が懐かしかったらしい。そんな金田正一も根来も亡くなってしまった。だんだんと、いろんな話が『過去の想い出』だけになってしまう。私もそんな歳なのである。
『金田正一の訃報』は各紙がいろんな形で伝えたが、非常に好意的なものばかりであったことが、よかった。
また一人『昭和の人物』が逝ってしまった。 安らかにお眠りください。

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