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カワサキアーカイブス  私が入社したころの川﨑航空機工業という会社  その4

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★ 私は昭和32年(1957)に川崎航空機工業に入社したのだが、新しく明石に単車の一貫生産工場が出来て、オートバイの生産が始まったのが昭和35年、私が初めてできた単車営業に異動したのが昭和36年11月なのである、  それまで会社としても全く未経験分野の民需商品の末端販売は、『上の人たち』先輩たちも未経験の分野だったから、それを担当したのはその当時に入社した若い人たちが殆どだったのである。
 私より上の人たちで言うと、アメリカ市場を開拓した浜脇洋二さん、後Z1を開発した大槻幸雄さん、レースも担当しF21Mのエンジン開発の安藤佶郎さん生産関係を推進された中村治道、髙橋鐵郎、川崎芳夫さんなどだが、むしろ、私より後の33年度入社の田崎雅元・稲村暁一、34年の北村敏、35年は百合草・武本・種子島、上月くんなど名前が書ききれないほど多数、36年は野田浩志、佐伯武彦、37年は前田、小池くんなど、38年の井川くんと続くのである。
カワサキの創生期の時代を引っ張った人たちとはこんな入社早々の若手だったのである。
 特に昭和38年(1963)頃からの海外市場の現地に赴いたのは、すべてと言ってもいい『若手諸君』だったのである。 そんな若手に任さねばならなかったのは、事業の事情から言って『仕方がなかった』のだと思うが、任された若手もよくやったものである。

 当時の川崎航空機工業自体が若い会社で、全軍の指揮をとられた岩城良三本部長も今で言うなら部長クラスの年齢だし、技術の山田熈明、営業の苧野豊秋さんなども新人課長であった時代なのである。
 そんな経験をしたものだから、私自身は『人間は年と共に成長する』などはウソだと思っていて、人間20歳になれば既に何でもできる判断力も実行力も身についているのだと思っている。昔の戦国武将の活躍がそうだし、川崎航空機時代の若手も、それに負けない活躍をしたのである。

  ★当時はカワサキも4輪の開発も手掛けていて、もう殆どできていたのに、当時の川崎重工や川崎製鉄の『グループのトップ層の反対』で陽の目を見なかったのだが、これが昭和35年頃の話で『4輪がダメなら二輪』ということになったのかも知れない。この4輪の4サイクルエンジン開発を担当したのが昭和33年入社の稲村暁一さんなのである。

  



★山田淳一さんが纏めてくれた記事には、このほかにこんな源平芸能合戦や、当時のレース関連のことも入っているので、ご関心のある方はご一読を。こんな感じのオモシロい自由な雰囲気の会社で、こんなことを担当してたのが、入社して間もない私だったのである。











★ それにしても『よくやったな』と思う。 当時は二輪メーカーは100社以上もあって、大企業の三菱・富士重・トーハツ・BSなどもいたのだが、浜松のホンダ・スズキ・ヤマハの特に営業面でのスピードに大企業はついて行けずにみんな脱落して結局『カワサキ』だけが残ったのである。カワサキが残れたのは『第1線の営業を川崎航空機の人がやらなかったからだ』と私は思っていて、それはほぼ『間違いない』のである。
 最初は国内市場だけで『カワサキ自販』が担当したが、その時のトップは川航の専務さんだったが、『従業員は全てメイハツ・メグロの人』でスタートしたのである。
 海外のアメリカ市場は、濱脇洋二さんが旗を振られたのだが、徹底した現地主義で実際の経営をやったのは『二輪知識の豊富なのアメリカ人たち』なのである。
今回のアーカイブスも今は12人の日本人が語っているが、次は二人のアメリカ人が『アメリカ市場でのカワサキの歴史』を語るようである。
 そしてヨーロッパ市場の開拓に乗り出したのは10年もあとのことだが、ヨーロッパを開拓したのは、メグロ出身の私より幾つか下の『内田道男』さんなのである。



  

 これは1988年10月に『カワサキファクトリーチーム25周年を記念』して私が主宰したOB会なのだが、当時の現役たちも参加しているのである。
25年前と言えば1963年・昭和38年のことだから、二輪事業がスタートしてすぐの時代なのである。
この1列目に座られている方が、『カワサキの二輪事業の推進者』だと言っていい。 真ん中に西海義治さんを挟んで左に山田熙明、右に髙橋鐵郎・苧野豊秋・中村治道・大槻幸雄さんと続いていて、左側にはメグロから来られた糠谷さん松尾勇さん、さらに第二列目には私の横が田崎雅元さん、平井稔男さんもいるし、3列目には北村敏さんも武本さんもいる。
 『カワサキアーカイブス』を創るのが少し遅かった。 この方たちがご存命の頃に創ればいろんなお話が聞けたはずである。 でも今回のアーカイブスでも、いま12名の方が語られているというのだが、この写真の中からも大槻・糠谷・田崎・私と4人の方が語られているし、この会には欠席の百合草三佐雄さんも12人の中に入っているようなので、当時のレース関係者は、その後のカワサキの二輪事業の中枢を担ったと言ってもいいのである。
 この写真、ライダーたちも、安良岡健・山本隆・歳森康師・金谷秀夫・星野一義・清原明彦などなど有名人がいっぱいなのである。  みんな川崎航空機工業時代を生きた人たちなのである。
川崎航空機工業という会社、その後の川崎重工業とはちょっと違った自由な雰囲気のあった『オモシロい懐かしい会社』だったし、そこで働けたこと、仲間たちに出会えたことが、今の私に繋がっていると思っている。  『私が入社したころの川﨑航空機工業という会社』 4回続けての掲載だったが、コレで一応終わりにしようと思っている。

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