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安良岡健さん逝く

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 ★私が未だ30歳前の頃、カワサキのファクトリレース担当をしていて、ライダー契約なども担当していた。未だロードレースをやっていないころで、安良岡健さんもカワサキコンバットの一員としてモトクロスライダーとして契約していた。

その頃のカワサキの契約ライダーたちである。

 

  右から梅津・岡部・山本・歳森・三橋・一番左が安良岡健である。

 契約ライダーはこの6人だった。

 その後昭和40年(1965)にロードレースにも進出し、この6人に加えて金谷秀夫・星野一義を加えて8人の契約ライダーとなったのである。

  このライダーたち、勿論私より若いのだが、8人のうち梅津・岡部・歳森・金谷に加えて安良岡までがこの世を去ってしまった。

 この写真の安良岡健が健さんが一番若い頃だと思うが、最後に彼に会ったのは私が80歳の誕生日6年前の3月2日なのである。

 この日はマウンテンライダースの50周年記念のパーテイーで日本の錚々たるライダーたちが集まっていたのである。

 

   

  

 このライダーたち私の親交のあった人たちで、この会に一緒に出席していた金谷秀夫ともこの日が最後になってしまったのである。

 

 安良岡健さんのことはこのブログでも何回か書いている。

 そんな中からの抜粋だが

 ・・・・・安良岡健さんは、当時どちらかと言うと「やんちゃな」ライダーが多かった中で、紳士然としていたのが印象的でした。 彼の世田谷の家にも何回か泊めて貰った事もあり、その後商売上でもお付き合いもありました。
若いライダーたちからの人望も厚く、星野一義が健さんに手紙を書いて当時のカワサキコンバットに入ってきたのはよく知られています。 カワサキの全然走らなかった125ccのGPレーサー(鈴鹿で2分50秒が切れなかった)の開発当初から、黙々と開発に携わっていたのを金谷秀夫君などはホントに尊敬の念で見ていました。
 
 もうこの話も時効でしょうが、名神がオープンして間もない頃、 「70キロのスピードオーバー」で名神始まって以来の記録的なスピード違反だと検挙され留置されてしまったことがあります。 鈴鹿からの帰り道、60おじさん(山本隆君)のs600を健さんのフェアレデイZが150キロで追い越したところを捉まったのです。 今でもそうですが、高槻の上り下りのある長い直線です。 なぜかあそこは80キロ制限、当時150キロ出るクルマは珍しい頃でしたが、あの直線は下っているのでスピードが出るのです。
歳森や星野もスピードに興味がある頃で、あの直線にくると窓を閉めてアクセル全開で走るのが常でした。


 これは別のブログからだが・・・

 ・・・・カワサキではロードレース、特にGPレーサーの開発に尽力して貰った。 まだ、125ccのGPマシンがスズカで2分50秒が切れない頃からだったので、大変だったと思う。
タイムが上がらないのは、マシンなのかライダーなのか、上手くいかない時によくある議論である。

そんな時期、健さんの契約問題が出たことがある。
その時、猛烈に私に意見を言ってくれたのは金谷秀夫だった

スズカから二人で帰る車の中で、 「いつ、壊れるか解らない危ない車の時代からテストさしといて、それはない。」というのである。 金谷の話は非常に説得力があった。
無理やり契約だけは、継続したのである。
66年FISCOの日本GPではじめてGPに出場したのだが、シモンズや谷口よりも安良岡がカワサキのライダーの中で一番の成績(7位)であったことは、私自身本当によかったと思っている。

 

 この時、技術部の意見どうり安良岡との契約解消していたら、安良岡健のその後のカワサキでの活躍はなかったのである。

安良岡健さんを支えたのはあの時の金谷のことばなのである。

 

★現役時代の大きな節目に開催した『カワサキファクトリー25周年OB会』に集まったライダーたちである。

 

  

 

 

    

 

 もう30年近くも前の話なのだが、この時も安良岡健さんが最長老だったのである。

レースの想い出も、ライダーたちも、私の人生にとっては『貴重な財産』なのだが、一人、二人と抜けていくのは寂しい限りである。

 健さん安らかにお眠りください。

 金谷や梅津・岡部・歳森などにお会いになれたら、よろしくお伝えください。


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