★今年で平成の30年が終わる。
昭和8年(1933)3月に生をうけて、平成30年(2018)年までの85年間、昭和と平成の時代を生きてきた。
そんな私の85年間の人生に於いて、平成の30年間は私の人生の集大成として『光輝く30年間』であったと思う。そのうちの1999年までの11年間は、現役最後の期間で、それなりの成果もあげたのだが、それ以降の平成の19年間がひょっとしたら『最高の人生』が送れたのではないかと、勝手にそう思っているのである。
その輝かしい平成の時代も今年で幕を閉じて『新しい時代が始まる』のだが、今年から始まる『新しい年代』はどのようなことになるのだろうか?
この85年間を、粗っぽく振り返ってみたいと思う。一言で言って『変化に富んだオモシロい人生』であった。若し、もう一度生まれ変わったとしても、全く『同じ人生でいい』と、思ったりしているのである。
そういう意味では「夢がなくて」「現実的なのかも知れない」 然し思ったことは『実現しない』と気に食わないので、殆どの自分の夢が実現したから、満足しているのかも知れない。
★ こどもの頃 昭和8年~昭和20年 (1歳~13歳) 1933~1945
兵庫県明石で生まれて、すぐ朝鮮・太田と京城(今のソウル)で終戦の年まで育っている。昭和20年8月15日は中学1年生であった。
昭和8年から日本は戦争を始めている。
支那事変から大東亜戦争という戦争の時代だったのに、不思議なほど平穏無事に暮らせたのである。小学校の3年生ぐらいまでは、夏・冬休みに明石に帰省していたので、当時は内地と言っていたが、戦前の日本も解っているのである。
当時のソウル・京城は、そんな内地に比べても、街も立派だったし、生活水準も一般に高かったのでは思っている。
戦時中ではあったが、空襲も疎開もなかったし、小学校(国民学校)の教育水準は非常に高くて、私自身も勉学も運動にも励んだので、卒業時には京城府伊賞(知事賞)などを頂いたりしたのである。
★ 中学校から大学卒業まで 昭和20年~昭和32年(14歳~26歳) 1945~1957
終戦の年の12月8日に、日本にそれこそ身一つ、1人1000円だけを持って、生まれ故郷の明石に引き揚げてきたのだが、まさに生活が一変するとはこんなことを言うのだろう。引き揚げ先は明石の上ノ丸は爆撃で焼失してしまっていたので、疎開先だった伊川谷の借り家だったのだが、翌年もう一度神戸一中の1年に再入学して、伊川谷から明石駅まで歩き、灘から地獄坂を登っての中学校生活だった。今思うとよく通えたものだと思うのである。
『戦後』というのは今の方に言っても、なかなかご理解願えないと思う。食糧難もさることながら、中学2年の時天皇陛下の関西行幸があったのだが、お泊りになるホテルが神戸になくて、神戸一中の教室を急遽改造してそこにお泊りになったのである。そんなこともあって私のクラスは『天覧授業』を受けたりしたのである。
旧制中学の最終学年の3年の時には県一女との男女共学となり、高校は学区制で明石高校に転校するのだが、中学3年生から大学までは、勉強など一切せずに野球に没頭していて、大学4回生では卒業せずに1年延ばして、野球部監督などをしていたのである。
当時の兵庫県の公立校は野球も強くて、神戸一中も明石高校も、甲子園出場を果たしているので、トップレベルの野球部生活を経験したことは、その後の人生にも大いに役立ったかなと思っている。
経済的には、まさに大変な時期を過ごしたのだが、いろんな意味で『世の中のトップレベル』というものはどんなものかということが体験できたのがよかったと思っている。別に一番である必要もないとは思うが『トップグループ』に位置していることは『どんなことか』。
Topグループの中にいないと、『世の中何も実現しない』と身に染みてそう思っている。
好運も手伝って、本来の卒業年次の昭和31年は不景気で就職も大変だったのだが、1年経って昭和32年は『神武景気』に様変わりして各企業は大量採用でお蔭様で川崎航空機に入社することになるのである。
★川崎航空機・川崎重工業・単車事業本部 昭和32年~昭和63年(26歳~57歳) 1957~1988
川崎航空機の入社試験の面接で、最初に言われた質問が『君は成績が悪いねえ』だったのである。大学でも全く勉強せずに野球ばっかりだったので、優などは殆どなくて可ばかりだったのである。第1問が大変な質問だったのだが、あまり慌てもせずに『野球ばかりしていましたから、でも会社の仕事ぐらいなら絶対に他人に負けないようにやれると思います』と言い切ったのである。
私は当時の砂野仁さんのコネでの受験だったのだが、この一言はその後の会社での仕事をやるときに忘れたことはないのである。自分の力で入社したとは思っていなくて『入れて頂いた』ことは間違いないので、砂野さんの面子が建つように頑張ったし、文句など一度も言ったことはない。
たまたま会社としても初経験の二輪事業に携わることになったことは、上司も同僚も部下も、みんな同じスタートラインからの競争だったので、他人に遅れることなく、トップグループの中で走り切れたのだと思っている。
昭和の終わり昭和63年までには、マーケッテングの分野では間違いなく、トップレベルの経験をして『他の追随を許さないレベル』には成っていたのも、単車という新しい分野を担当する好運がプラスしたと思っている。
この時期の最後の数年間が、いまアップしている『カワサキジェットスキー物語』のスタート時期で、それこそ世界で初めての製品の初めての世界展開を担当することが出来たのである。
その『ソウル・オリンピック』のデモン・ストレーションが1988年で、この年で昭和の時代の終わりでもあったのである。
★ 国内販売担当・『新しいカワサキのイメージ創造』 平成元年~平成11年 (57歳~67歳) 1989~1999
平成元年から始まるこの11年間が私の現役最後の11年間である。
川重副社長の髙橋鐵郎さんが社長を兼務されていたKMJの専務として、国内マーケットを総括し、上図の6社の会社の社長を兼務して、二輪とジェットスキーの国内マーケットを統括した『私の現役生活の総仕上げ』だったのである。
この中心となったのが『遊びの専門会社=ケイ・スポーツ・システム』というソフト会社であり、JJSBAのレース活動などを統括したKJSや、日本の最先端を走った物流政策などのトータル・システムの確立を図って、遊んでいても自然に売れる『仕組みの構築』を目指したのである。ユーザークラブKAZEを作ったのもこの時だし、ホンダさんのHARTを圧倒する55000人の会員数を誇ったのである。
その結果は、与えられた大きな目標『7万台の販売達成』が実現して、当時の事業本部の中で、国内市場が『最大の利益貢献度』も併せて実現した最高の時代だったのである。
この時代に20年の歳月を経て、復活した基本コンセプトが、Kawasaki .Let the good times roll ! で、
単車出身の田崎雅元さんが川重社長の頃には、川崎重工業の基本コンセプトになったのである。
★ 退職後の約18年 平成12年~平成30年 (68歳~85歳) 2000~2018
退職後はどんな人生が待ち受けているのかな?
と思っていたのだが、振り返ってみてもこの19年がひょっとしたら私の人生で一番輝いている期間かも知れないのである。
この平成の19年間、私が集中したのは、
1つは、 体力の増進 ストレッチと筋力強化
2つは、 ネットというシステムの『私なりの仕組みの創造』
3つ目の その基本となるコンセプトは、 Let the Good Times roll !
基本的には総合的な『仕組みの創造』なのである。
カワサキでは一言で言えば『カワサキのブランドイメージの創造』のために『大きな仕組みの創造』に取り組んでいて、それが『生活を創る』上の表のような形になったのだが、
10年前に創った NPO法人 The Good Times は、ここに出会う人たちが自然にハッピーになるような活動を目指している。
昭和と平成の時代を生きて、今年はまた『新しい時代』がスタートする。
今まで生きた85年間をこのように語れることができる幸せを嬉しく思っているのである。
残り少ない人生かも知れぬが、1年は短いようで結構長い。
ちゃんと生きたら、ちゃんと応えてくれるのである。