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カワサキジェットスキー物語 5

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★ジェットスキーとはカワサキの商品名で、1971年に開発されて72年からアメリカ市場だけで年5000台ほどの販売が続いていたのだが、KMCという単車事業部の子会社の開発商品で且つリンカー工場生産なので、川崎重工業から言えば『継子商品』だったのである。

 エンジン供給元の発動機事業部もジェットスキーチームは解散されて、このままではJS400・JS500だけで、終わってしまったかも知れなかったのだが、84・85年になって一挙にJS550が2万台を超す販売になって、アメリカのKMCの経営改善には大いに貢献したのだが、川崎重工の明石工場サイドとしては発動機事業本部の550ccエンジンが2万台出荷されただけで、KMCの親元である単車事業本部には何の関係もなかったのである。

この間の事情を当時KMCの社長だった田崎さんが、こんなメールで私に知らせてくれたのである。その一部をご紹介する。

「J/S販売規模を20000隻/年に!」

実質上のトップ、山田熙明さん(当時の川重副社長)からの国際電話、「田﨑君!2割、3割の増産ならともかく、20000隻とは!無理をするな!」と呆れかえったような忠告。これを、丁寧に無視して、単独で勝負に出た状況を想い起こしています。 若かったと思います。

「スノーモビル事業からの撤退」という、日本企業が一番苦手とする退却(転進)、この一大マイナスプロジェクトのため、全体の再建シナリオから抜け落ちている リンカーン工場での操業不足と懸命に闘っている佐伯社長の姿が脳裏に浮かぶ、こうした心境にあった時期に、全米に張り巡らされた情報網からの絶え間ないJS情報のインプット、 自分で試乗を重ねているJ/Sに対する愛などが混然となり、直感が確信へと移りかわり、J/S20000台生産のリスクテイキングの決心となった。まさに、大好きな 天の時 地の利 人の和  時は今!と、大げさに表現するなら 天の啓示 を受けた。

 

2万台以上もの販売規模が実現したとなると、何時までも『継子商品』のまま放置するわけにもいかず明石の単車事業本部としても自らの開発商品とすべきという動きが企画室内で起こるのである。

 一挙に2万台の生産規模にしたのは、KMC社長だった田崎雅元さんだし、企画室は私の管轄だったのだが、当時は二人とも未だ若手部長という職位だったのだが、リンカーン工場の生産拡大も、明石の企画で正規製品として技術部に開発を促す行為も、アメリカ以外の欧州や国内市場への進出についても、二人とも別に相談したわけではないのだが、独断でその実施に踏み切っているのである。

 そしてその翌年もアメリカでは24000台の販売が継続したので、独断先行した行為も何となく『当然の処置』ということになって86年度からは、大庭本部長の指示として、新製品の開発も、欧州・国内の市場開拓も進んで行くのである。

 

★このプロジェクトを『独断専行』したのは、ホントに限られたメンバーで、アメリカでは田崎雅元さん、明石サイドは私と武本一郎さんが『言いだしべえ』でそれを支えて具体的に展開してくれたのは、85年8月にオーストラリア社長の任期を終えて帰国した鶴谷将俊さんと発動機から『ジェットスキーに乗れる』ということで単車企画に異動してきた福井昇さん、たまたま他事業本部から異動して来てスペインに連絡事務所を創って欧州市場開拓に携わった藤元さん、国内ではJJSBA初代会長をされた苧野豊秋さんと、私がこのプロジェクトのために指名し東京営業所長でから引き抜いた藤田孝明さんなどの数名が核になって進めたプロジェクトで、85・86年当時は、職制すらなかったのである。

やっと、ジェットスキーに関する職制が出来たのは、私が企画室から営業総括部に異動した87年度からで、その時初めてジェットスキー部門がスタートし、正規に鶴谷将俊さんがアメリカ以外の世界のジェットスキーの市場展開に旗を振る体制となるのである。

 

 ★この間に明石の単車事業本部の技術部では、JS300の開発が進められるのだがその開発コンセプトは、開発計画書に、『底辺層・初心者、女性など需要創造のためのエントリーのジェットスキーとしてやや小型な船体にKX250ベースの300㏄エンジンを搭載』と書かれていて、明らかに、二輪でいうなら『50ccモペット』のようなコンセプトだったのである。

   

 

『KMCの製品』から『カワサキの製品』となるので、単車事業本部の技術部が意気込んで開発に着手した第1号製品なのである。

 

       

  

従来、単車事業本部の明石では、ジェットスキーは何の関係もなかったので、これに乗れるメンバーもいないのである。このJS300の開発テストも、福井昇くんが加古川で、テストに乗ったりしたのだが、もう一つ安定性に欠けるという評価なのである。

KMCにも試作品を送ってテスト依頼をしたようだが、田﨑さんは先日私宛にこんなメールを送ってこられたのである。

JS300は、大きな問題だった。JS550よりもう少し小型でコストも安いものをと、モトクロス用エンジンを搭載して明石で開発し、試作艇がKMCに持ち込まれた。 ところが、陸上のバイクとは違って、浮力不足で小型になると非常に乗りにくく、私なんかではとても乗れないし、全然面白くない。日本の福井さんからも、内々で、乗りにくいという評価が寄せられ、KMCは販売しないと決めたが、結局KMMで生産し、ヨーロッパや日本で売るという技術部主導の意思決定となったようである。・・・

 

      

 

 多分、その時の写真なのだろう。こんな写真も送られてきたのである。

 単車事業本部でのはじめてのジェットスキーJS300は、こんなこともあって87年度から国内や欧州市場で販売されることになるのだが、基本コンセプトに書かれたような訳にはいかなかったのである。 

 

 ★そんな情勢の中で推移した単車事業本部のジェットスキー・プロジェクトなのだが、1982年からスタートした単車事業本部の再建計画も86年にはほぼ再建の目途も立ち、大庭本部長は副社長として本社に戻られ、髙橋本部長体制となり、さらに87年度は単車・発動機の合併が行われて、私自身は企画室を離れ、営業総括部に異動となり、そこに新たにジェットスキープロジェクト推進部門が正規にスタートし、鶴谷将俊さんがその責任者となるのである。

 田崎さんもKMCの社長から帰任し企画室への異動となる、そんな新時代が幕を開けることになるのである。

私自身は、従来企画室長でありながら、ヨーロッパや国内のジェットスキー市場開発に関わってきたのだが、新組織では営業総括部門の責任者として、鶴谷さんとともにジェットスキー新事業のアメリカ以外の市場の旗を振ることになるのだが、この古谷・鶴谷コンビのジェットスキー事業展開は90年度半ばまで続き、ほぼ完全な状態に仕上がっていくのである。

この分野ではカワサキが世界初のものであったし、87年度からはヤマハさんの参入もあったりしたのだが、パーソナルウオータークラフト(PW)という新しいネーミングもできて、その安全運転協会(PWSA)の設立など、業界としても確固たるものに仕上がっていくのである。

そういう意味で、この業界の文字通り先駆者として、その初期の段階に色濃く関われたことは、振り返ってみても非常に良かったと思うし、競合メーカーのヤマハさんともホントに親密に接することができたのはよかったと思っている。

次回からは、川崎重工業の正規の製品として、世界展開するカワサキのジェットスキー・プロジェクトについて、この物語は続いて行くのである。

 

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