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錦江ホテルと私の運命

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 ★こんな戦前の明石にあった『錦江ホテル』のカタログを昨日妹が持ってきた。

私にとっては、想い出いっぱいの懐かしいホテルである。

 

子どもの頃、今の韓国のソウル、当時の京城で中学1年生まで育ったのだが、

戦争がひどくなる小学4年生ごろまでは、夏冬の休みはずっと明石に帰省していたのである。

特に夏は海で泳ぐことが多くて、その基地になっていたのがこのホテルなのである。

 

戦前にしてはハイカラな外人客も泊ったりする豪勢なホテルだったように思う。

当時の明石海岸は、カタログ通りの背の高い松林が続いていて、ほぼカタログ通りの様子であった。

 

 

 今は下の写真のように明石市立勤労福祉会館になっている。

その逆の方角からみると、松林が続いていて、昔の面影が幾らか残っている。

 

   

 ちょっと読みづらいが、その当時としての説明が書かれている。

廣野ゴルフ場にも触れられていて、車で約40分、今とあまり変わらない時間である。道は細く未舗装だが信号など少なかったからだろう。

 

 

中の様子は、こんな感じであった。

贅沢に造られていて、特に庭は広くて池には鯉がいっぱいいた。

明石川でバケツいっぱい、ウナギの子所謂『シラス』を取ってきて池に入れたりしたのをよく覚えている。

この錦江ホテルのオーナーは伯父、経営者は叔父が支配人でやっていた。

 

 

当時の宿泊費や食事の料金が載っている。

食事が1円、2円、宿泊費が8円などと書かれているから、2000分の1ぐらいの貨幣価値なのだろうか?

外人も来ていたから、英文表記もある。

 

右の写真が、明石海峡向こうは淡路島である。こんな風に整備されていて、『中崎海岸』か『中崎公園』とか言っていた。

現在はこのあたりに海岸線の道路が走っていて。海峡を埋め立てて明石市役所になっている。

 

 

★当時、伯父は南鮮電力という電力会社の株主で非常勤の副社長をしていたのだが、明石ではこんな錦江ホテルを半ば道楽でやっていて叔父が支配人をしていたのである。

父は京城では何もしていなかったから、多分株の配当などで暮らしてたのかも知れない。そんな話題を聞いたこともないし、

兎に角子どもは金とは無縁で育てられた。お年玉も、小遣いも今まで貰った経験がないのである。

 

戦争がひどくなって、川崎航空機の軍人の宿舎か何かで売るように命令されて、川崎航空機に備品什器付きで100万円で売っている。

その当時の総務部長が砂野仁さん(後川崎重工業社長)で、伯父との間で売買契約書が結ばれている。

戦後、砂野仁さんとはそのままお付き合いが続いて、私は砂野さんの薦めで、神戸1中も受けたし、川崎航空機にもお世話になったのである。

子どもの時から知っていた『おっちゃん』が、会社では社長さんだったのである。

 

ただ、砂野さんのコネで、川崎航空機に入社したので、自分の実力で入ったわけではない。『入れて頂いた』という想いはずっと持っていてた。

『入れて頂いたのだから、会社にはちゃんとそれなりのことはしなくては』と勝手にずっとそう思っていた。

そんなことで、現役時代も一度だって会社の給料が安いなど、思ったこともなかった。 よくして頂いたと思っている。

入社後の配属先がたまたま、財産課だったので、錦江ホテルの売買契約書を見る機会があったので、その価格を知っているのである。

 

★財産課では原価償却のIBM化に直ぐ取り組んだ。2年かかったが完成したら計算要員は要らなくなって、直ぐ単車営業に転出してその後ずっと二輪業界にどっぷりつかって、

退職した今もなお、2輪との関係は切れずに生きている。

 

そんな人生のその原点は『錦江ホテル』なのである。

このホテルがなかったら、川崎との接点は生まれていない。

カワサキにも、二輪にも、出会えたし、家内にも出会えた。

お陰で、楽しく生きさせていただいた。

 

伯父にも、『錦江ホテル』にも感謝だし、『砂野仁』さんにも感謝なのである。

 

 

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