★『樋渡啓祐さんのこと』 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/002a15cd168e8c5a70d100748b8b27ff
と題してこんなブログを書いたのは、2006年11月のことだからもう10年以上も前のことである。
こんな風に書いている。
総務省から出向して、高槻市長公室長を平成15年4月より17年12月まで2年半ほど務められ、また総務省に戻られた。1969年佐賀県生まれだから、まだ40才前の若さである。
高槻市のホームページ「こちら部長室」で62回に及ぶ、彼のコメントを読んだだけである。
樋渡さんの「こちら部長室」の第1回は「全国一のホームページを目指して」で始まり第62回「さよなら部長室」で終わっている。
その中の第36回に『求む 奇人、変人』というのがあった。
「組織には必ず、奇人、変人が少なからず存在している。それが許容されているのがいいのだ。」と言っている。
高槻市に「着任して1年経って思うのは、潜在的な奇人、変人の人たちが「普通、一般化」していないか、もっと奇人、変人をそのまま伸ばす方向を採るべき」といっておられます。まったく同感です。
更に「いい企画、いい仕事をするためにも、知的好奇心いっぱいの奇人、変人が是非とも必要です。」
「私自身も勇気をもって奇人、変人の類になるように頑張ります。まだまだ、潜在的に埋もれている奇人、変人は沢山いると思います。」と続けて、奇人、変人のいい素質を持ちながら「普通一般化」している、高槻市のAさん、Bさん、Cさんに呼びかけているのである。
私はこう結んでいる。
これは何も高槻市に限らない。一般の民間企業でも油断をすると、直ぐこの風潮は体質となる。
全ての組織体にとって、「求む、奇人、変人」は通用すると思う。
★このブログに突然ご本人の樋渡啓祐さんから『佐賀県武雄市長の樋渡啓祐です』というコメントが来て、私は樋渡さんと繋がったのである。
樋渡さん今は、こんな感じなのである。 https://www.facebook.com/keisuke.hiwatashi.9
★なぜ、こんなことを思い出したのかと言うと、
川崎重工業の相信会から社内報「かわさき」が送られてきて、金花社長のこんな『社長の視点』と言う一文があって、昭和40年代のジェットスキーのことが書かれていた。
『世界を変えた挑戦、我々にはそのDNAがある。』との見出しで「挑戦」と言えば大げさですが、日々の仕事の中にも挑戦する機会はあるはずです。・・・先輩方が培ってきた挑戦する文化を継承し、川崎重工グループ全体で一歩先を見据えて挑戦を重ね、「カワる、サキㇸ。」スピーデイーに変化していきましょう。
昭和40年代と言えばちょうど私たちも20代後半から30代に入った時期である。
その頃、単車事業部では、あのH1やZ1が世に出たし、世界の二輪市場が開拓されていた。その第1線を担当したのは、みんな経験のない若手だった。
ジェットスキーも、当時はまだ川崎重工の商品ではなく、発動機事業部のエンジンをリンカ―ン工場に送り、そこで生産をして、販売会社のKMCだけがアメリカ市場だけで販売をスタートさせていたKMCの商品だったのである。
明石の単車事業部には一人のジェットスキー担当者もいなかったのである。
たまたまだが、これは今年1月だが、こんなメンバーでの写真がある。
右から私と同期の藤川さん、当時は発動機事業部で、まさにジェットスキーのエンジン開発担当者であった。そのエンジンとアメリカ人が開発した特許のジェットスキー船体とのコラボで出来上がったのがジェットスキーである。
その横がこの視点を書かれた 川崎重工業の金森社長
その右は、元川重社長の田崎雅元さん、そして私。 田崎さんは私の一期下である。
そして、これはそのジェットスキーに乗る若い頃の田崎雅元さんである。
当時は ジェットスキーは、発動機の商品で、単車事業部は関係なかったから、単車事業部でジェットスキーに乗れた人はひょっとしたら、当時アメリカのKMCの社長をしてた田崎さんだけだったかも知れないのである。田崎さんはオートバイ通勤したりしていた。不思議に思うかも知れぬが、当時の事業部でオートバイに乗る人も意外に少なかったのである。
当時の事業部は『奇人・変人の集まり』だった。
藤川さんは、ご本人はまともだと思っておられるかも知れないが、よく言えば『ユニーク』まさにちょっと変わっているし、
田崎さんも、やはりちょっと『変わっている』と言ったほうがいい。
そんなKMCだけの商品だった、ジェットスキーを正真正銘の川崎重工業の商品にしようと旗を振ったのは私だし、それをKMC社長として手伝ってくれたのが田崎さん、具体的にジェットスキーの世界展開を担当してくれたのは鶴谷将俊さんやかって藤川さんの部下だった福井昇くんである。
その鶴谷さんには、私たちが揃って外地育ちだったものだから、『古谷さんと、田崎さんは日本人じゃないから・・』と二人の変わった発想を評されていたりしたのである。
然し、私や田崎さんは、まだまだ『まとも』なほうで、当時の事業部には『奇人・変人の真打ち』みたいな人が、いっぱいいたのである。
それが当時の『事業本部の活気』を支えていたのだと思っている。
★樋渡啓祐さんが、10年前に このように言っておられる。
「組織には必ず、奇人、変人が少なからず存在している。それが許容されているのがいいのだ。
高槻市に着任して1年経って思うのは、潜在的な奇人、変人の人たちが「普通、一般化」していないか、もっと奇人、変人をそのまま伸ばす方向を採るべき 更にいい企画、いい仕事をするためにも、知的好奇心いっぱいの奇人、変人が是非とも必要です。」
「私自身も勇気をもって奇人、変人の類になるように頑張ります。まだまだ、潜在的に埋もれている奇人、変人は沢山いると思いますと、奇人、変人のいい素質を持ちながら「普通一般化」している、高槻市のAさん、Bさん、Cさんに呼びかけている。
そして私は、
これは何も高槻市に限らない。一般の民間企業でも油断をすると、直ぐこの風潮は体質となる。
全ての組織体にとって、「求む、奇人、変人」は通用すると思う。
『今のカワサキはどうかな?』 と結んでいる。
金森社長には、是非先人たちの『奇人・変人』のDNAを引き継いで、『奇人・変人が育ちやすい 川崎重工業』を目指して欲しいなと思うのである。ちょっと『まとも』になり過ぎていて、かって樋渡さんが指摘された『高槻市役所』のようになっているのでは、などと思っているのだが・・・
『潜在的な奇人、変人の人たちが「普通、一般化」していないか』 ・・・・