★私は戦前中学校1年生までは当時の京城に住んでいた。
京城は小学校の時代を過ごした、想い出いっぱいの故郷なのである。
そんな京城に戦前住んでおられた方も何人かおられて、田崎雅元さんなども小学校低学年を京城で過ごされたようである。
ごく最近、ひょんなことで、川重の発動機におられた谷本哲也さんとFacebook で繋がったのだが、
https://www.facebook.com/tanimoto.san
写真に造詣が深くて、旧い京城のこんな写真を、こんなコメント付きで、いろいろと送って頂いたのである。
いつも楽しFaceBook、楽しく拝見しています。・・・朝鮮・京城の思いでをお持ちの由がわかりました。・・小生は京城・冷泉町に住み、西大門小学校に入学、父は京城第一高等女学校や京畿高等女学校(梨花女子大の前身?)で英語の教鞭をとっていました。
KHI時代、1968年代アメリカから帰任の後、戦後初めて朴大統領の軍政下の韓国に”農発”の技術援助契約交渉で、また川重防災時代には亡・八木 健氏と韓国製ガス機器の調達で幾度か訪韓しました。・・
小学校時代夏・冬の休みに明石に帰省していたので当時の神戸なども知っているのだが、当時日本一と言われていた神戸の市電よりも、神戸の三越百貨店よりも、京城の市電や、京城の三越は立派だったのを思いだしたりするのである。
こんな戦前の地図も送って頂いたのである。
これは京城の北西部、地図の下の方に、京城駅がある。
左が昔、右は現在である。
南大門 京城駅と繁華街三越の間にあって、当時から名所として有名だった。
そして、南大門あたりから、北上したところに、総督府があった。
左の写真に見える山が『北漢山』で小学校の遠足で登ったこともある。
地図の下の真ん中あたり南山の麓にに朝鮮神宮があった。
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★ この辺りが京城の繁華街の中心である。
三越や郵便局や 朝鮮ホテル などがあったし、本町商店街が繋がっていた。
これは、京城で当時一番格式の高かった『朝鮮ホテル』で三越と一番新しくスマートだった『半島ホテル』との間に位置していた。
当時は伯父が年に何度か京城を当時の南鮮電力の役員会などで訪れていたのだが、会議の前後は朝鮮ホテルに泊まっていたので知っているのである。因みに南鮮電力の事務所は半島ホテルのビルの中にあったのである。
正面が三越、左側が中央郵便局だと思う。
三越の左側に商店街が広がっていて、この辺りにはよく出かけたのでその地理も覚えている。
こちらが、地図の右半分、京城の東側である。
一番右端に新堂町とあるが、『城東区新堂町桜ケ丘』に住んでいた。比較的新しく開拓された町で、桜ケ丘小学校に通っていた。
この写真は、ソウルオリンピックの時に見つけて撮ってきた、わが母校である。ご覧の通りの立派な校舎で、当時の日本の小学校の殆どが木造の頃に、鉄筋コンクリートの校舎である。
地図の右下にある『将忠壇公園』で冬はこの池で毎日スケートを楽しんでいた。
家から歩いて、10分ぐらいの距離だった。
当時はこの地区が東の限界だったが、いまは日本と同じで真ん中になっている。
これが今のソウルだが、その広さは当時の4倍以上になっているように思う。
真ん中に流れているのが『漢江』で戦前は 川の南など何もなかったが、いまはソウルの真ん中を 漢江が流れている感じで、ソウルオリンピックの競技場も漢江の南側に創られていたのである。
戦後70年、日本もそうだが、一変するものである。
朝鮮京城については、私自身もいろいろ写真を集めていて、既にこんな写真をブログにアップしているのである。
http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/71e1752d8a1cdb10e82c2a3eedb5b0ab
★、谷本さんのお蔭で懐かしい京城の想い出を楽しむことができた。
その朝鮮は、北と南に分割されてしまったのが、何よりも『一番の悲劇』であるように思うのである。
もし分割されていなければ、どうなっていたであろう?