★延々と67回に亘って綴ってきた自分史『カワサキの二輪事業と私』なのだが、私と二輪事業との直接の関係は、平成8年(1996)6月30日をもって終止符を打ち、7月1日からは川崎重工業CP事業本部に復帰することになったのである。
昭和63年(1988)10月1日に カワサキオートバイ販売の専務として就任して以来、約8年間の最後の国内第1線の担当だったのだが、当時はアメリカなど海外市場が一応の水準に達した上に急激な円高で、国内市場の拡充は事業部そのものの『円高対策』という重要な側面も持っていたのである。
そんなこともあってカワ販の社長であり、CP事業本部長でもあった高橋鐵郎さんからは、台数目標7万台 売上高400億円 という厳しい数値目標も与えられて、当時の事業本部の中では国内市場がアメリカ以上に最大の市場だったのである。
Jet Ski については、『発動機事業部のエンジンをアメリカのリンカーン工場に送リ、Jet Ski に組み上げアメリカのKMCだけで販売する』という単車事業本部の明石には、全く関係のなかった事業だったのだが、それを単車事業本部本来のの事業とすべく、企画室時代に企画室内に『Jet Ski』部門を立ち上げて、鶴谷将俊さんの担当として、ヨーロッパ・国内にも販売する方向を目指したのだが、それがようやく実りかけて、1988年のソウルオリンピック開会式のデモンストレーションに正式招待を受けるまでにはなったのである。
そのあとすぐに、国内赴任の辞令を頂いたのである。
★ 販売台数7万台を目指すとなると、従来のカワ販の健全経営という固いイメージから脱却して『新しいカワサキのイメージ創造』を目指して、ユーザーの組織化のKAZEの展開や、『レースに強いカワサキの復活』など、販売活動だけでは『7万台目標』など掛け声だけに終わってしまうだろうと思ったのである。
就任してまず1番にやったのは、『カワサキファクトリーチーム25周年記念』のOB会の開催で、10月1日に赴任して、10月15日に開催し、真っ先に私自身が手掛けたである。
その時の写真だが、山田元副社長・苧野豊秋・中村治道さんなどカワサキの創世期のレースや事業を支えた重鎮の方にも集まって頂いて、これからの国内市場を担当する『私の決意表明』でもあったのである。
ライダーたちは安良岡・山本・岡部・梅津・金谷・和田など錚々たるメンバーが顔を揃えOBたちの末席を務めたのは星野一義と清原明彦で、当時の現役レースチームの諸君もお招きしての会合だったのである。
★たまたま、当時はSPA直入を建設中で、翌年その開幕を迎えるためにも、是非ともカワサキのレースを強くすること、そのチームを強力に支えることが必須で、カワ販が担当していたチームグリーンの充実を重本・野村くんなどと共にまず図ったのである。
当時のメンバーとしては、塚本・宗和・多田・鶴田・北川 などが活躍した時代でビートレーシングや 月木レーシングとも協働しての活動だったのである。
長年優勝のできなかった、鈴鹿8時間耐久レースにもラッセル・スライトのコンビで優勝できたし、チームグリーンの選手たちも常に好成績を残して、フランスでの24時間耐久にも、塚本・宗・多田で出場し入賞するなど好成績を残したし、当時の4耐・6耐では、ビートや月木から若手が出場して常にカワサキが席巻していたのである。
★ そして、高橋鉄郎本部長とのお約束の国内市場7万台、400億円の売上 が、3年目の91年の6月に実現したのである。
レースの優勝なども含めて、これらは勿論努力もあったのだが、まさに『周囲の運を引きずり込んだ』感じだったのである。
その最たるものがZEPHYR で、ZEPHYR がなかったら、『7万台の達成』もそんなに容易な目標ではなかったはずである。
発売以前にこの車がこんなに売れるなど、当時はだれも予想などしていないのである。レーサーレプリカ最盛期の時代に、なぜZEPHYRがあれだけ売れたのか、私はいまでもよく解ってはいないのだが、兎に角、3年間も売れ続けたのである。
この8年間は、国内市場でカワサキが光り輝いた時代だと言っていいが、この間、高橋鐵郎さんにはカワ販社長は非常勤の兼務ではあったのだが、末端マーケットやユーザーたちへの理解が深く、高橋さんとのコンビでなければ、実現しなかったと言っていい。
このようなことを『ホンネで自分の言葉で語れるトップ』がいて、初めてこんな実績が伴ったのだとは思うが、『運もよかった』ことも事実なのである。
私自身も人生いろいろ『運』には恵まれていると思ってはいるのだが、この8年間コンビを組ませて頂いた高橋鐵郎さんも、若い頃から一緒にいろいろとやった田崎雅元さんも、間違いなく幸運の持ち主で、川崎重工業の社長や副社長になるなど、この10年前には考えも出来なかったことなのである。
大庭浩社長のお力だとは思うが、その大庭さんも、単車に来られたことが「幸運のきっかけ」かも解らないのである。そんな幸運をお持ちの方々と、結構『本音のお付き合い』が出来た私も幸せだったと思っている。
ホントか?と言われる方が殆どだと思うが、私の現役生活で『私のいうこと』を『一番聞いて頂いた上司』は大庭浩さんなのである。
大庭さんが本部長を務められた時、私は企画室長という番頭役で大庭さんを支えたのだが、殆どの提案をそのまま聞いて頂いたのである。この国内担当期間には、大庭さんは既に川重社長をされていたのだが、『SPA直入』『ケイ・スポーツ・システム』というソフト会社、『松井田サーキットプロジェクト』『二輪車のの自動車専門学校』等々みんな川重では初めての案件だったのだが、経営会議で殆ど無修正で通して頂いたのである。
★ そんな中でも特筆できるのは、Kawasaki . Let the good times roll ! という基本コンセプトの復活で、これは、旧く1975年ごろ アメリカのKMCでスタートしたのだが、以降20年間は忘れられて眠っていたものを、1990年代国内市場が7万台を達成し全国に KAWASAI PLAZA網を展開した時に、国内市場で私が復活し、それを高橋本部長が世界展開とされたのである。
その後田崎さんが川重社長などされて、川崎重工業の基本コンセプトにもなっていたのである。
新宿の ショール―ム Kawasaki Plaza ビルの屋上に 掲げられた Kawasaki Good Times コンセプトと、ユーザークラブKAZE の看板私にとっても、当時国内を担当した人たちにとっても、胸を張れる最高の存在だったのである。
そんなカワサキの二輪事業のコンセプトも何故か20年以上も眠り続けていたのである。
ひょっとして、再び眠ってしまっても、世の中の方たちに決して忘れられないようにと、8年前にカワサキの当時の仲間と共に立ち上げたのが、NPO The Good Times なのである。
そう言う意味では、私とは75年以来、40年以上のお付き合いなのである。
そのスタートの時点で、高橋鐵郎さんには趣旨をお話して相談役に入って頂いたし、その会員カードNO.30番台にはカワサキの二輪事業に関係の深かった高橋鐵郎・田崎雅元・大槻幸雄・百合草三佐雄・稲村暁一・大津信・衛藤誠(二輪車新聞記者)などの方々が名を連ねているし、平井稔男・渡部達也・小川優・山本隆・福井昇・吉田俊一さんなどは理事として深く関わってくれているのである。
その他カワサキのかってのライダーたちや、カワサキの二輪事業に深く関わった人たちが多数会員におられるし、二輪のカワサキファンたちもいっぱいなのである。
★ こんな私の『カワサキの二輪事業と私』だったのだが、この8年間で国内市場で私が創り上げた『新しいカワサキの仕組み』は単に「販売会社」の枠を超えて、こんなトータルシステムで、その目指すところは遊んでいても『自然にモノが売れる』そんなシステムを目指したものだったのである。
当時の『カワサキグループの機能』とその関係を明確に表している関係図である。
単なる「販売活動」ではなく、『遊びやこころの満足』を目指しての活動で、その中核的な役割を果たしたのがユーザークラブKAZEや、JJSBAの活動なのだが、社内の各機能は無くなってしまったが、この二つは20年経った今もなお活動を続けている。
そう言う意味でも、末端の人たちと組んだ組織こそが、本来の活動の原点なのである。
こんな夫々の機能を、それこそSNSのように繋いだ運営だったのだが・・・、『遊んでいてもアレだけ売れる』のなら、『一生懸命売ればもっと売れる』はずだと、単純な営業活動に専念されるようになったのだが、なかなか結果は伴ってはいないのである。
この辺りが末端ユーザーを動かす、民需事業の難しさで、『マーケッテンング・マインド』がベースにないと、難しいのかなと思うのである。
★『カワサキの二輪事業と私』の最後に、ずっと私を手伝ってくれたのだが、先に逝ってしまった岩崎茂樹をご紹介しておきたい。 頭もいいし、バイクにも詳しく、野球もできて、仕組みシステムが解る、珍しい才人だった のである。
田崎さんとのコンビも長かったし、高橋鐵郎さんの販売関係の師匠役でもあった。彼の最後の仕事は、国内の物流改革を担当して、私を支えてくれたのである。 若い頃、私のあとのファクトリーチームのレースマネージメントを引き継いでくれたのも岩崎茂樹であった。 この写真は、最近田崎さんが私に送ってくれたものである。
カワサキの二輪事業との関係で、『岩崎茂樹』にお世話になった人たちは、私に限らず多いはずである。
カワサキの二輪事業、それはカワサキの開発した数々のマシンをベースに展開してきたのだが、それをマーケッテングの立場から、末端のユーザーや販売店とも協働して『カワサキ独特の仕組み』や『カワサキ独特のブランドイメージ』の確立に尽力された方たちのお名前はこの最終稿に記述したつもりで、カワサキの二輪事業はこの方たちの長年の努力で、いまがあるとも思っている。
注)私の『自分史』は、また違った形で、続けたいと思っています。