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カワサキ二輪事業と私  その64 平成5年(1993)

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 ★平成5年(1993)は 皇太子・雅子さまの御結婚があったり、細川内閣や Jリーグが新しくスタートした年である。

私自身は60才還暦を迎えたし、長男に初孫が生まれたりした。

カワサキでの現役生活も前年度に理事を卒業して技監になったり、サラリーマンから国内グループを文字通り統括するそんな立場になっていた。

新しい国内のパーソナル・ウオータークラフト業界では、ヤマハさんと協働して、PWSA協会を立ち上げ、その会長なども務めたし、自動車工業会の二輪車特別対策委員会のメンバーとして、業界活動などにも携わることになって、その活動は従来以上に広くなっていたし、業界の会合以外でもホンダ・ヤマハ・スズキさんの方たちとのお付き合いが増えていったのである。

私自身は、二輪事業を担当していたが、カワサキのためにというよりも常に業界のためにという意識があったのは二輪業界が4輪などに比べてそんなに大きな業界ではないし、そんな中でカワサキだけの発展を望むよりは業界自体を大きくする方がカワサキにとってもプラスだと思っていたからである。

現役当時の販売網は専売店もあったがそれは販売店がそれを望んだからで、他社を扱うことを制限したことはない。個人的にも車はホンダのアコードに乗ったり、娘のスクーターはスズキ、ゴルフのクラブはヤマハだったりした。

 

前年までは、カワサキの国内グループの与えられた数値目標などもあったのだが、国内市場拡大の7万台目標も達成できて、今後はこのグループを、二輪業界をどのような形のものに導くべきか、改めて考えねばならぬ時期だったのである。

PWSA業界では、曲がりなりにも業界の先頭を走っていたし、今までにない『レース』が中心の商品だったので、それをどんな形に持っていくのか? その方向性を示さねばならぬ、そんな時期だったと言っていい。

 

 

        

 

 CP事業本部長の高橋鐵郎さんが、KMJ社長を兼務されていて、 『"ユーザーの満足" が全ての思考の基準です』と

Kawasaki Good Times コンセプトを復活し、愛される『好感企業』をめざしたのである。

 

    

 

    その現場を担当した私は、高いレベルの専門会社群による『ソフト・ビジネス』事業体を目指したのである。

 

  当時の私の手書きの『発想のベース』だが、その基本ソフトは、誰にも任さずに自分で考え、全てを専門化し『プロのレベル』を目指したのである。

 

        

  

 何事も、単純に言ってアマチュアというか素人のレベルでは、『ユーザーの満足』などはとても与えることはできないと思ったので、そのための専門化だし、機能別組織としたのである。

従来のような汎用的な販売会社では、社会や他人であるユーザーを引っ張ることなど難しいと思ったのである。

新しく創った『CS推進部』をその核としているが、『顧客満足のCS』の Cは、日本で一般的な Customer Satisfaction (取引先)ではなく、
明確に Consumer Satisfaction (末端消費者)を目指したのである。

 

  こちらはそれを綺麗な表にしたものである。

 

   

 

 

  特筆できるのは、この年から販売店にも明確に、どのような機能を、自分の店の売りにするのか?

 という『機能別ARK』の方向を提唱し、サービス・ショールーム・レース・KAZE・アクセサリー・セールス などの諸機能のうち、どのような分野で高いレベルを目指すのか、明確にしていくことを要求したのである。

 この年を機に、部品用品などの専門化を目指したのが、インターナショナルトレーデイング・ムラシマで、今でも残っている機能別ARK である。

そんなご縁で今でもいろんな形で村島邦彦さんとはお付き合いが続いているのである。

 

ショールームとしては、新宿のショールームがこのビルの1階で展開されたのである。

 

          

 

  この年、カワサキは、長い歴史の鈴鹿8時間耐久レースで、ラッセル・スライトのコンビで念願の優勝を果たしている。

 

     

 

  優勝マシンは『イトーハム・レーシング』

  優勝監督は、確か大津信さん。

  この年初めてできたスポーツ推進部部長は、岩崎茂樹さん。

 

  そしてこの優勝マシンは、博多・天神のIMSビル3階にオープンしたショールームに展示されたのである。

この IMS の展示場は約60坪、敷金が6000万円、賃料200万円・月 と相当高価だったが、博多の一等地だったし、新宿と並んでその展示効果は非常に大きかったのである。

これらソフト・ビジネスや レースの世界を専門的に担当したソフト会社が、株・ケイ・スポーツ・システムで、ユーザークラブKAZEも担当して、当時は会員55000人を有していたし、ちょっと他社とは完全に差別化された、オモシロいグループ展開となっていたのである。

 グループの若い人たちが積極的に動いてくれて、首都圏対策として東京都では特別対策を行っていたのだが、その一つが前回ご紹介した新宿ショールームの『アフター・ファイブ』で、これはカワサキOBとの協働であったし、『つきみののショップ』担当は入社早々の若手小岩井くんがが担当していたのである。

 

    

 

 この年、特筆できるのは、JJSBA設立10周年を記念して琵琶湖で開催された JET SKY WORLD CUP '93 で、アメリカ・オーストラリア・カナダ・ヨーロッパ・東南アジアのチャンピオンたちを集めての、文字通りのワールド・カップ開催である。

苧野豊秋さんがこのJJSBAの認可を求めて渡米された時には私もご一緒したのだが、その時いろいろと手伝ってくれたのが、当時KMC社長だった田崎雅元さんなのである。

それから10年、カワサキのJet Sky ビジネスはこれを担当してくれた鶴谷将俊さんの努力で彼はこの時にはJJSBA会長も兼務していたのだが、こんな立派な大会が開催されるところまで来たのは感無量だったのである。

 

★この時期の『カワサキ』はCP事業本部長の高橋鐵郎さんが旗を振っておられたので、このような展開も可能だったのだと思うが、

新宿のビルの頂上に大きく広告された Kawasaki Let the good times roll ! も国内で復活し全世界展開となったのである。

1975年当時アメリカで生まれたカワサキの基本コンセプトだったが、約20年の空白を経て復活したのである。

 

この『コンセプト』について、田崎さんがこんなメッセージを私に送ってくれているのでご紹介を・・

 私は、KMC社長・CP事業本部長・KHI社長の職責を通じて、Good Times のスローガンを使い続けています。平成10年の MIND の挨拶は「Good Times のカワサキ」で締めています。平成12年6月の社長メッセージも、締めは、「Kawasaki .Let the good times roll !」 

カワサキの皆様(顧客、従業員、株主、取引先等)! ”豊かで生きがいのある人生(Good Times)を追求し続け(ROLL)しましょう”という呼びかけで、いまでは Kawasaki ブランドとともに世界中で親しまれています。 

このスローガンでアメリカ人のスタッフと英文法で議論した事があります。Kawasaki が主語なら Letsで、Kawasaki の意思表明になるし、Let’s なら皆でやろうという事になるのでは、といったら、難しく考えないで 最初のKawasaki は、われわれKawasaki は、とか Kawasaki の皆さん!という呼びかけと思ったら良いと云って笑っていました。 ”Roll” がミソで 幸せの輪をまわす、と モターサイクルに引っかけているように思います。

 

1970年代にアメリカで生まれ、歌もできて当時のアメリカでは非常に有名だった。

アメリカ生まれだから、正式な日本語訳はない。

『カワサキに出会う人たちがみんなハッピーになるような活動をカワサキは展開し続けます』高橋さんはよくこのように言われていた。

 

    

 

 これは当時明石のショールームに飾られていた。 いまどこにあるのだろう?

 ちなみに、この年、田崎さんはニューヨークから戻って、CP事業本部副本部長だったのである。

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

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