★昔のことは、よく覚えていないことも多いし、明確に覚えていることもある。
昨日は7月8日、兵庫県では夏の甲子園の予選が始まった。
夏の予選のことぐらいは、もう65年以上も前の話だがよく覚えている。
今は、兵庫県下、高校の数が増えたのだろう。
我々の時代は兵庫県で80校ほどだったのである。
予選は、当時はそれこそ甲子園球場と西宮球場で行われていて、私は明石高校だったものだから予選前の練習はずっと明石球場だったのである。
その明石球場は『明石トーカロ球場』というらしい。
昔も、ちょうど今頃から予選は始まったはずである。
夏だから当然暑かったのだと思うが、今のように暑くはなかったのかも知れない。
厳しい練習で、真っ暗になってからベースランニングが始まるような、長い練習だったが、その間水は一切飲めなかったのだが、当時は、『熱中症』で倒れるようなのはいなかったように思う。
多分、その記憶は正確で、熱中症で死人が出るようになったのは、極く最近の話のようである。
或は、高齢者社会になったので、『高齢者の熱中症』が増えたのかも知れない。
★ネットの中で、調べてみたらこんなやり取りが見つかった。
昔の人は熱中症や脱水という症状は起こさなかったのですか?
スポーツをやっている会社の社長が「わしの若い頃は熱中症や脱水なんか「なかった」」と言っています。
ベストアンサーに選ばれた回答
昔は、脱水症状とか水分不足とかいう概念がなかったんです。
それは、ある実験に基づいてそう信じられていたんです。
その実験とは、大正時代に旧帝国陸軍によって行われた実験で、ある一定距離を行軍するのに、1つは水分を補給しながら行軍する部隊、もう1つは水分補給をせずに行軍する部隊という具合に、水分補給の影響を調べるものだったそうです。
そのとき、偶然にも、水分を途中で補給せずに行軍を行った部隊の方が早かったとか効率的だったとか、そういう結果が出てしまいました。
恐ろしいことに、その実験結果はなんと昭和50年代くらいまで信じ込まれていたようです。
それまで事故が起こらなかったのが不思議なくらいですが、昔の人はその陸軍が行った実験結果を信じ込んでいたのは事実のようです。なので少し前までは、スポーツの練習中にもあまり水分をとらないようにするという考え方をする人は結構多かったようです。
一番有名な説は「打撃の神様」として名高い川上哲治氏が、夏の甲子園第23回大会で持ち帰ったのが始まり、という説です。甲子園の公式ホームページを見ると、「甲子園の土を持ち帰る風習は川上哲治氏から」となっています。しかし、川上氏の長男の「最初に甲子園の土を持って帰ったのは、父ではない」との発言が残っているので、「いつから甲子園の土を持って帰る風習は始まったのか?」の真相は定かではありません。
「甲子園の土=負けたチームが持ち帰るもの」という考えが広まったのは、とある事件がきっかけであると言われています。それは、1958年の大会で沖縄の首里高の選手たちが持ち帰ろうとしたら、検疫に引っかかり海に捨てさせられた、という事件です。当時、沖縄はまだアメリカ統治の下にあり、アメリカの国の一部という扱いになっていました。地元である沖縄に帰る時には入国検査があり、その検疫で引っかかってしまい泣く泣く首里港に捨てられた、という事件です。この事件が大々的に報道されたことにより、「甲子園の土=負けたチームが持ち帰るもの」という認識が私たちの間に広まった、ということです
この話も、初めて聞いた。
私たちの時代は、甲子園で予選があったし、兵庫県の野球部のOB戦は毎年新年に甲子園であったので別に特別の球場でもなかったのである。
特に私は、大学のリーグ戦が甲子園で行われていたので、『生涯一番多く野球の試合をしたのは甲子園』という今では考えられない野球人生だったのである・
その頃の甲子園での話を、もう一つ。
阪神の名投手小山正明 は兵庫県の高砂高校の出身で私の1年後輩なのである。
同じ東播地区だったので何度か試合をしているが、負けたことはない。高校時代はそんなに『有名選手』でもなかったのである。
小山正明を『Wikipedia 』では、このように書いている。
高砂高校3年秋の1952年に進学を勧める父親を説得し、その父親のつてで大阪タイガースの入団テストを受け、契約金なしの月給5,000円で打撃投手も兼ねたテスト生として入団。
大学のリーグ戦のあと、阪神の2軍の練習が甲子園で行われていて、その中に『練習生・小山正明』はいたのである。
ちなみに、小山は明石の出身なのに、なぜ高砂高校に行ったのだろう?
小山の妹さんは、間違いなく明石高校なのである。
★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。