★ 昭和63年(1988)は実質『昭和の時代の終わりの年』である。
私自身の川崎重工業での勤めもこの年が最後で、私の川崎重工業でのサラリーマンとしての仕事は『昭和の時代』と共に終わったと言っていい。
ソウルオリンピックの年でもあって、川崎重工での最後の仕事は9月、『ソウルオリンピック』の開会式当日ハンガン(漢江)でのジェットスキーのデモンストレーションという華々しいものだったのである。これは韓国のオリンピック委員会からの正式招待を受けたもので、日本・アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリアの各地域の男女ジェットスキーチャンピオンを集めてのものだった。
宿舎も OLYMPIC FAMILY TOWN 内に用意して頂いての1週間だったのである。
当時のJJSBA会長の苧野豊秋さんや、ジェットスキー担当してここまで育ててきた鶴谷将俊さんや、カワサキのジェットスキー世界展開を最初から手伝ってくれた福井昇くんなど沢山の方たちの協働だったのである。
私はその団長としての参加だったが、朝鮮京城は小学校時代の故郷であり、この滞在の間に昔の家も見つけたし、通った小学校も見ることができて本当に懐かしかったのである。
オリンピック委員会から頂いた『記念の楯』である。
★この年のことを、企画室にいた田崎さんはこのように記している。
2月に直入町の岩井町長が来社、その後10月には後藤、町議会会長と、また11月には町会議員15人を連れて来社している。
これは私も色濃く関係した、直入町対策で、後述する。
5月には、貴方が得意(?)のKT法(戦略思考開発カレッジ)が始まり、大庭本部長のスピーチの声が一段と大きくなった。
KT法は、私が得意というよりは、大庭さんがホントに熱心だったのである。
6月頃から、米国IRS(国税局)の調査が、TRANSFER PRICE「移転価格]問題として日本に飛び火してきた。ダンピング問題でかなり詳細なコスト資料が提出されており、米国での利益は何処にいったのか!、長期間税金も納められない企業がなぜ存続しているのか!日本側の人員削減が出来ないために赤字を続けるのなら、そのコストは日本政府が負担すべきだ!米国国税局は日本の失業対策費は負担しない! という論理で、米国の同種同規模の会社を参考に,見なし課税をかける。日米租税条約で二重課税が不当であるというのなら、日本の国税局から還付して貰え! というのである。企業は誰かの利益のために活動している筈、銀行、下請け、などに利益が移転しているのでは?とまで言ってきた。まさに資本主義の論理であり、赤字でも市場から退出しない日本型経営を認めないというものである。
本件は日本の国税局を巻き込むことになるので、本社の森田課長(後のCP本部長)と堤さんが全面的に対応した。初めは、日本国税局は、「仕切り価格を我々が決めているわけではない」と冷たかったが、幸い国税局の中堅幹部が、ここは「米国の一方的な論理を認めるわけにはいかない」と男気を出して前面に出てくれるようになった。おそらく、やがて米国に進出している日本企業全体の問題になると感じていたのだと思う。解決には1989年末までかかったが、業界で初めてのADVANCED PRICING AGREEMENT(事前価格協定)という仕組みが、日米の国税局の承認のもとでつくられた。
こんな話は、この時期既に私は企画から営業に異動していて、全然知らなかった。田崎さんは技術屋だが、ダンピングの時もそうだったが、このような問題に非常に強く、また興味もお持ちである。逆に私はちょっと『苦手の分野』だから、企画に田崎さんが戻っていてよかったと思っている。
10月には、貴方のアレンジだとおもうが、山田さんも参加した「ファクトリーチームのOB会」があり「川崎神社の竣工式」もあった。他には本社営総の安川さんが、海南島プロジェクト(東洋のハワイ化)を持ち込んできたりしたが、実現しなかった。
私は、10月1日からカワサキオートバイ販売の専務として国内販社に3度目の出向となっていて、その初仕事してやったのが、10月15日に芦屋の竹園旅館で一泊2日で行った『カワサキファクトリーチーム25周年記念OB会』なのである。
カワサキのレースの祖 兵庫メグロの西海義治社長を真ん中に山田・高橋・苧野・中村・大槻・糠谷それに創世期のレースを支えた松尾勇さんが前列にいて、私と田崎さん、平井さんが2列目に、ライダーたちは、安良岡・山本・歳森・金谷・和田・岡部・梅津・星野・清原とまさに錚々たるメンバーが名を連ね、当時の現役チームのメンバーも参加しているのである。
安藤・百合草さんがアメリカで参加されていないが、カワサキのレースチームはこんなメンバーが支えたし、川崎の二輪事業も、川崎重工業もこんなメンバーが支えたとも言えるのである。
この写真は、二輪車新聞の衛藤誠さんが取材に来られて撮られたものである。
★この年2月、岩屋直入町長が来社と書かれているが、直入町問題は大変解決のムツカシイ問題が、長年に亘って続いていたのである。
直入町のテストコース問題は、旧く昭和49年(1974)にテストコース用地として購入し、農業振興地域の指定解除の条件として、雇用規模200名などが契約で義務付けられていたのだが、その後事業本部の経営状況はとてもテストコースなど建設できる状況ではなく、直入町と契約した諸条件が不履行になっていて、直入町長以下が年に何度も来社してムツカシイ交渉がずっと続いていたのである。
この問題の対策として、対策チームが創られ、モトクロス場を造るという計画案が既にあって検討が進められていたのだが、3月初旬にその件で柏木茂企画室長から、私に相談があったのだが、私は即座にモトクロス場ではなくて、一般ユーザーの走れる小型サーキット場の建設を提案したのである。
そんなに詳しく検討したわけではないのだが、モトクロス場ではもう一つニュース性がないし、コースの維持管理が結構面倒だし、何よりも、当時各メーカはレーサーレプリカ全盛期で高性能のクルマは売るのだが、ユーザーはそれを走らす場所がなく、峠にたむろして走ったりするので『峠族』などと呼ばれたりしていたのである。全国にある「サーキット」はレース仕様専用で当時は一般車は走らせてくれなかったし、メーカーの責務としても一般ユーザーが走れる小型サーキットを、創ればとふと思っただけである。
具体的な対策を検討するために、3月8日には岩崎茂樹ほかと中山サーキットの現地視察、3月11日にはそのコンセプトの高橋本部長の承認を取って、3月28日には直入町を訪ねて、直入町長に骨子を話して概ねの了解を取り、岩崎と二人で現地調査もして、4月には本社の単車担当阿二さんも誘って、中山サーキットや四国のサーキットの現状調査を行うと同時に
4月12日にはこのような基本計画を組み、本社担当部門に説明、了解を得ているのである。
これが私自身の仕事のやり方で、『ムツカシイこと』は自ら起案し自ら動き、短時間で仕上げてしまうのである。こんな問題を部下にやらしたら倍の時間があってもとても実現などしないのである。
この直入サーキット計画は9月には、本社経営会議の承認を受け、年末までに大分県の許認可も得て翌年早々建設に取り掛かったのである。
★前述したとおり、この年の9月末でKHIでの勤務を終わり、10月からは新しい職場で、7万台販売目標と共に、『新しいカワサキ』という新しいブランドイメージの創造という壮大な課題にチャレンジすることになるのである。
単なる台数や売上高目標だけでなく、よりムツカシイ課題にチャレンジするために、最初にした仕事は『レースに強いワサキの復活』を大きな目標に掲げて、先輩方にもその決意を伝えるべくOB会をまず開催したし、この直入のサーキットも国内販社が買い上げてその主体運営を図る方向とし、そのための専門ソフト会社の設立構想や、今も続いているユーザークラブKAZEなどの基本構想なども矢継ぎ早に提言し、夫々川崎重工業の経営会議の承認を得ているのである。
当時の大庭浩社長が私の企画室長時代の本部長であったこともあってその信頼は厚く、川崎重工業としてはサーキットの創設もソフト会社の設立も、全く初めてのことだったのだが、何の問題もなく承認されたので、その後の事業展開にも大いに寄与することになるのである。
当時の『カワサキオートバイ販売の社長』は事業本部長の高橋鐵郎さんが兼務して頂いていて、事業本部の協力体制も万全であったと言えるのである。
そんな昭和63年(1988)であった。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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