★昭和59年(1984)当時の出来事を見ると、こんなのが並んでいる。
1万円・5千円・千円の新札発行 ●グリコ・森永事件 ●世界一の長寿国に ●日本初の衛星放送始まる ●日経平均株価が初めて10,000円の大台を突破日本も新しい時代に入った時代だが、『カワサキの二輪事業』もようやく危機の時代を乗り越えて、新しい時代に入っていこうとする年だと言えるのだろう。
大庭本部長・高橋副本部長・田崎KMC社長 の時代である。
再建屋として単車事業部に来られた大庭浩さんは2年目で、新発売の Ninja 900R も好調だった。
本社財務に支えて頂いて、特に当時の松本新さん(後川重副社長)は、良き二輪事業の理解者だったし、毎月の取締役会ではKMC報告を直接なさっていて、その資料を私が作成して松本さんに報告をしていたのである。
こんな懐かしい写真をみんな田崎さんが送ってくれたのである。
前年度に懸案であった販売会社の経営改善は全世界の販売会社の期間損益はの黒字化が達成されて、その目玉のKMCも何年か続いた大幅赤字で当時はまだ38百万ドルもの累損を抱えていたのだが、83年度には5百万ドルの黒字化が達成され、その累損消去の第1年度が始まったのである。
そんな上向きの兆候が見え始めたのだが、その経営改善の第一は財務対策による営業外損益の改善で、固定費の削減なども大きかったし、特に売上高が増えた訳でもないのだが、対策の方向としては間違っていなかったのである。
当時のKMCは事業所がサンタアナ市の4か所に分散していて、経営効率も悪かったし、経費節減などでムードもあまりよくないし、『何か前向きなことはないかな』と思っていたのだが、
83年の7月にKMCに出張して、アナハイムでゴルフをした帰りの車の中で、田崎さんと二人で、『4か所に分散している事務所を1か所に統合しては・・』という話をふとしたのだが、この『新社屋話』は、その後トントン拍子で進んで、84年の後半には、川崎重工本社の承認を得て、『土地の取得と社屋の建設計画』が具体的に進むのである。
★そんな『新社屋話』について田崎さんが写真とこんな文章をメールして頂いているのでご紹介する。
1983年の終わり頃になると、次の課題は、電算センター、R&Dセンター、西部支社兼部品センターと本社の4か所に分散されている機能の集約、新本社ビルの建設であった。本件は、古谷さんとは内々に話し合っていたように思う。1月早々に、とても良い土地が見つかったというのですぐ下見をした。素晴らしい環境で、一目で惚れ込んだ。この新しい土地は、当時保有していた土地社屋と、おおむね等価交換できるものだったので、こんなチャンスを見逃してはならないと、KHIには事後承認をとることにして、すぐ手付をうった。新社屋が完成したのは、1986年の4月である。
このプロジェクトは、大西副社長の意向もあって、鹿島建設と決めていたが、米人役員の手前もあって、一応フェアーな競争という形をとった。米人役員に「忖度」というメンタリティがあったかどうかは知らないが、幸い全役員が鹿島建設の提案を支持してくれた。早速、鹿島建設が造った模型をもって日本へ飛び本社のOKを貰った。後は1985年5月の地鎮祭、1986年4月の竣工と移転、6月のKMC20周年記念を兼ねた開所式(Grand Opening)と順調に進んだ。
その当時の写真を送って頂いている。
これは、川重の承認を得た直後、現地を視察された大西副社長を、田崎さんと二人でご案内した時の写真である。この年の10月中旬のことである。
元々、この地図の左上のサンタアナの55号線沿いに4か所の事務所があったのだが、右下のアーバインの5号と405がぶつかった右上が当時はまだ広大な土地を開拓中で、そこに移ることにしたのである。
これは Google マップ からの写真で、今はまた別の土地に移ったがこんな土地と建物だった。このGoogle の写真だけはまだKMC時代で、建物の向う側にいるトラックの屋根には拡大すると Kawaswaki の文字が見られるのである。
こちらはたまたまだが、2年前にアメリカに行ったときに、懐かしいので私自身が撮ってきた写真である。
今はKMCの事務所は、この近くだが別のところに移転している。
地鎮祭などの写真もあるのだが、翌年のことなので、85年の話は、次回に・・・
★この年の幕開けは、ハワイでの全米のデーラーミーテングだったのだが、大庭本部長ご夫妻が出席されている。
日本では考えられないほどの規模と豪華さなのである。
田崎さんは、その時の様子と、その時起こった大変な出来事をこのように記している。
さて1984年は1月末にハワイで全米ディーラーミーティングを開催、2000人を超えるディーラー夫妻と関係者を前に、大庭本部長夫妻の初登場、「NINJA900」をフラグシップとした新生KMCの晴れやかな幕開けであった。ところが、打ち上げ花火で盛り上がりの真っ最中、とんでもない情報が入り冷水を浴びせかけられた。
KMCが販売したポリスバイクに対するPL訴訟が敗訴となり「100億円の損害賠償が課せられた」というのである。これはテキサス州における、8人のライダーによるクラスアクション(集団訴訟)で、場所がテキサス、相手がポリス集団、という最悪の状況での陪審員による評決であった。すぐ部屋で休養中の大庭本部長に報告したが、第一声は「モーターサイクルは危険商品だな」「これはすぐに本社の支援を要請せねばならん」というものであった。これが大西副社長を経由して、本社法務部の小里さんの出馬となるのである。
この問題にはかなり手こずった。高速ワブリング(揺れ)現象でライダーが転倒負傷し、製品欠陥であるとされ、NHTSA(運輸省調査局)、CHP(カリフォルニア ハイウエーパトロール)、LAPD(ロス市警)、さらにはCPSC(消費者安全委員会)が関与、そしてカナダにまで飛び火するのである。
カワサキの立場は、車の整備不良、ライダーの技量不足、無理なライディング、が原因であるとするものであったが、相手を納得させるには、高速で安全に走ってみせる事が一番だと、後に田村品証部長が清原ライダー、(坂上?)メカニックと共に、全米各地に販売されたポリスバイクのサービスキャンペインを展開した。2年以上かかった困難なプロジェクトであった。田村さんなら一冊の本が書けるだろう。その後、これを見た原告側の姿勢が軟化し始め、早く示談金を貰って離婚に備えたいというメンバーも出てきて、PL保険会社の東京海上と相談しながら、10億円(KMC負担は1億円)で和解し、リコール問題も消えた。 以後KMCのリーガル部門は小里さんを中心に強化されていく。
田村さんには本当にご苦労をかけたKMCの一大事件であった。清原ライダーがポリスバイクに乗ってフリーウエイを走行中に、ポリスに捕まり、以後彼は「I can not speek English!]と書いた札を首にぶら下げて走った、というエピソードもあります。
田崎さんのあとのKMC社長であった百合草三佐雄さんも、この100億円の白バイ訴訟の件を、『カワサキZの源流と軌跡』の中でこのように披露している。 当時の小里さんの名前も出てくる。
★この話にもあるように、当時のアメリカは、PL真っ盛りの時代で、あまりにも多くのPL訴訟が起こりその金額が膨大なので、その後日本の保険会社も軒並みアメリカPL保険は除外するというようなことになったのである。
そんなこともあって、当時のカワサキの職制には『PL班』もあってその長は田村一郎さん、アメリカに、自らPL保険会社を創ったりもした。川重法務部の専門家小里弘道さんがこの年以降数年KMCに出向して手伝ってくれたのである。
兎に角、ただ二輪車を売ってたらいいという時代ではなくて、次から次にいろんなことが起こって、その障害を乗り越えて行った時代だったと言っていい。
★この年の6月、大庭本部長は『ATTACK 60』という経営目標を指示されるのである。
前年度で、全販社の黒字健全化は達成できたが、この『ATTACK 60』とは、販売会社30億、事業本部でも30億、合計60億円の利益をめざそうというものである。
この対策を全グループでそれぞれ目指しその統括は企画室で担当したのだが、具体的な方策として『ジェットスキーのエンジンのボアアップ』と『GPレースからの撤退』は、私自身が関係したことだったのである。
ジェットスキーは、当時はアメリカだけで売られていて、年間6000台ぐらいの安定販売だったのだが、カワサキ独自の製品だったし、その利益性もよかったので、その倍増を狙ってそれぞれのエンジンのボアアップを図り、60年度には15000台を狙う計画を組んだが、現実にはそれ以上2万台の販売実績となって、大きな新市場が出来たのである。
同時に、日本国内でもその販売の拡充を狙って、そのレース組織 JJSBAの設立のために、苧野豊秋KMS社長と一緒にアメリカに行って、田崎さんがアメリカのジェットスキー協会との橋渡しをして頂いたのである。
この年、日本のJJSBAは設立され、その初代会長には苧野さんがなられて、当時の西部自動車のメンバーたちと一緒に日本のジェットスキー・レースの基礎を創られたのである。
もう一つの『GPレースからの撤退』は非常に苦しい判断ではあったが、GPレースはやりかけると幾らかかるか解らないようなところがあって、事業本部の黒字化をめざすには、『撤退』は一時的には仕方がなかったのである。
当時は KR250/350の全盛期でヨーロッパGPを席巻していた時代で、ほんとに苦渋の決断だったのだが、この話をアメリカで田崎・古谷・百合草のかってのレース仲間で話し合ったのである。百合草さんは猛烈に反対したのだが、事業部の黒字化のためには、仕方がなかったのである。
ただ、全くレースの世界から撤退したのでは、復活が大変なので国内のレース活動費として、『Team Green 』を創って平井稔男さんに数千万円を渡しその運営を託したのである。
これ以降数年、カワサキのファクトリーチームの活動はなかったが、国内はTeam Green が、ヨーロッパではカワサキフランスが耐久レースでの活動で、カワサキのレースを支えてくれたのである。
当時のカワサキフランスは伊藤忠の資本で、遠藤治一さんが社長だったのだが、この方がまためちゃめちゃオモシロくて、山田副社長とも親しかったし、私も懇意にして頂いて具体的にその経営のお手伝いもしたのである。
そんな関係で、遠藤さんは今でもZ1会のメンバーで年に何度かお会いして旧交を温めているのである。
いろんなことがあった1年だが、やはり『KMCの新社屋』が一番大きな出来事だっただろう。
社屋の完成は86年4月なのである。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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