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カワサキの二輪事業と私 その49昭和53年(1978)

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★昭和53年(1978)のカワサキ二輪事業は、2年前の11月に『市場開発プロジェクト室』が創られ高橋鐵郎室長が担当されたのだが、その後どんどん順調に推移するものだから、翌年にはアメリカ・日本を除くヨーロッパを含めての営業部門担当となり、さらにこの年の4月には発動機事業本部の中に単車事業部が創られ、それまで企画室にいた田崎雅元さんなどを逆に取り込んで単車事業部スタートすることになったのである。

そして、その事業部長には高橋鐵郎さんが就任されることになるのである。

 

  

 

 この年の3月には、Z250FT やZ400FXの生産が開始されたり、8月には国内最大排気量のKZ13006気筒が発表されたりして、ニューモデルの開発などは勢いがあった。

この1300の開発責任者大槻幸雄さんは、このマシンを置き土産に念願の?ガスタービンのほうに異動されることになったのである。

 

    

 

 さらにレースの世界ではKR250/350 が大活躍をした年で、このような最高の成績を残した年なのである。

 

   

    

    こちらはカワサキワールドに展示されているKR250である。

    

 

 表面的にはこのように順調な流れであったように見えるのだが、その裏側の実情は非常に厳しい状況下に置かれていたのだが、多分当時事業部におられた技術屋さんなどは、殆どこんな裏事情などご存じないのではと思われるのである。

 

 ★ これまでのカワサキの二輪事業を引っ張ってきたアメリカのKMCの勢いがなくなって、この年の3月でこの10年アメリカ市場を担当された浜脇洋二さんから、発動機出身の山田晴治社長に引き継がれ、二輪車と共に発動機の製品でもあるジェットスキーやスノーモービルもリンカーン工場で生産されその販売も開始されたのだが、スノーモービルは製品的には抜群のものに仕上がっていたのだが、運悪く雪不足と重なって売れ残って大変だったのである。

さらに加えて、『ハーレーのダンピング訴訟』がカワサキの二輪事業の根幹であるアメリカ市場で起こったために、その対応は川崎重工業本社部門も巻き込んでの大問題だったのである。

当時のアメリカ市場の状況について、速遅速遅蜜疎蜜疎 http://www.geocities.jp/croutonv/ で、このように記述されているような時代だったのである。

 

<アメリカ政府による輸入規制>

日本製二輪車が海外に本格的に輸出され始める1960年代前半から、外国政府における輸入規制や高関税の問題はしばしば生じていました。これは当時、日本製の大型二輪車が高性能・低価格を武器にアメリカ市場を席巻し、アメリカ唯一の量産二輪車メーカーであったハーレーダビッドソン社を窮地に追い込んでいました。ハーレーダビッドソン社は、日本のメーカーを相手取って反ダンピング訴訟を起こしており、アメリカ政府に上記内容の規制を働きかけたのです。アメリカ政府も業績の悪化していたハーレーダビッドソン社を救済するという明確な意図を持っていたようです。

 

この『ハーレー問題』を担当していたのが田崎さんで、これはアメリカ市場で単純に車を『安く売っている』ということではなくて、アメリカ独特のダンピングのルールなのだが、アメリカ市場での流通経費率以上のものは認めないのである。

通常でも日本の流通機構は長くて流通経費がかさむ上に、当時のカワサキだけが『カワ販本社』なる一段階多い流通機構になってたので、国内市場の30%以上にもなる国内の流通経費率が問題になって、このままではカワサキだけが『ダンピング』になってしまうのである。

従ってアメリカのダンピング対策なのだが、実際は『国内の販売構造対策』だったのである。

その対策を本社スタッフと共に、いろんな方たちが担当されて、6月、9月とその対策案を上程されたのだが、なかなか現状にマッチせずとうとう暗礁に乗り上げてしまったのである。

この問題の対策は、当時のカワ販のトップ人事対策にも拘わる問題なので、最初から『長くカワ販にいた古谷』を巻き込むのは気の毒と配慮して頂いてそれまでは蚊帳の外にいたのだが、9月の対策でも解決しなかったので、突如 塚本本部長から直接の指示を頂いて、カワ販問題対策を担当することになるのである。

 

★この国内販社構造改革は、ホンダ・ヤマハ・スズキに比べてカワサキだけが、カワ販本社という一つ多い流通段階がある上に、そのトップにおられる方々は、役員レベルや現役理事レベルなどの大物がおられるものだから経費率も高くなるし、営業第1線は営業所を除いては旧メグロ・メイハツ出身の方も多く、複雑で、よく内容が解っていないとその具体的対策も難しかったのである。

その対策基本案の骨子を塚本本部長などに答申し、10月18日には川重本社に堀川運平財務本部長を訪ねてご説明をしたのである。

堀川さんは、2年前私が川重企画に戻った時の企画室長でもあった方なので『古谷くんが1ヶ月考えて創った案ならそれに乗りましょう』と言って頂いて10月20日に今井財務担当副社長以下本社関係部門の検討会議で了承を得て、正規常務会・取締役会に上程されることになるのである。

 

これが、12月25日に発動機事業本部から出された役員会資料である。

当時はまだ役員会資料と言っても『手書きの資料』で、原案は私の自筆であったが成案は流石に綺麗に書かれている。

     

    

 

 具体的にはこんな改組であった。

一見しただけで簡素化されたのがお解り頂けると思う。

 

     

 

 当時はかって私が担当していた大市場の営業所と各地の代理店からスタートした地域販社が並列していたのだが、それを販社6社に単純化したのと、カワ販本社の中にあった部品事業をKMSとして別会社すすることに依り、その経費比率の削減を図ったのである。

言ってしまえば簡単だが、組織には当然人事も伴うので、メイハツ・メグロの方たちを含め、その実態がよく解っていないとなかなか簡単ではないのである。たまたま10年もいた古巣のカワ販のことだから何とか成案に漕ぎつけたのである。

特に従来大きかったカワ販本社は、KHI国内営業部門と一体運営することとし、従来の本社要員を各販社に分散させて本社部門は10人ほどの小さな部門とすることにし、本社も従来の『東京』から『明石』に移すことにして一体運営を可能にしたのである。

このような対策をすることに依り、問題であった『経費率』の問題は解決し『ハーレーダンピング問題』も解決することになり、1月1日から新体制でスタートすることになったのである。

 

★この問題は9月に塚本本部長から、その具体的な『対策案』を創れとの指示を頂いて、私自身はその対策案を創っただけの積りだったのだが、11月に高橋鐵郎さんが本社の大西常務に最後の確認に行かれた時、大西さんから、KHIとの一体運営となっているが、『これはホントは誰が旗を振るのか?』と聞かれて『古谷です』と答えたら、『それなら古谷を常務にせよ』とのご指示があって急遽カワ販常務となってしまうのである。

川崎重工では未だ一課長の46歳の頃のことで、一躍380名のグループを率いるカワ販常務となってしまうのである。

 

  

 

★少々のことには、物怖じしない私なのだが、これはなかなかの大役なのである。

ただ単に旗を振るだけなら、そんなに難しくもないのだが、従来はかっての川崎航空機の役員であった田中誠社長が10年間統率されていたグループだけに、販売会社の6社の責任者の方の殆どが年上だったし、特に部品会社のカワサキモータースジャパンの苧野豊秋さんは10年来の私の直接の上司だし、事業部長の高橋鐵郎さんにとってもかっての上司に当たる方なのである。

そんな非常に不思議な組織だったのだが、これは『ダンピング対策』で経費率削減が至上命題だったので致し方なかったのである。

それまで、カワ販の社長をされていた田中誠さんも清水屋常務も、現実のカワ販の実務からは離れられたのだが、組織の中からは名前は消えたが、全くおられなくなったわけではないので、お昼は『田中・苧野・清水屋さん』とずっとご一緒に食事のお相手をして、先輩方に対応していたのである。

かってカワ販時代に直接ご指導を受けた田中誠社長が大学の先輩でもあったので、何とかなったのかも知れぬが、苧野さんにはこの後10年以上もいろいろと、気を遣って頂いてお世話になることになるのである。

こんなことは、まず普通のサラリーマン生活では経験できないことで、こんなことも運命かなと思うのである。

この年以降翌年は毎月川重本社の大西常務への報告が定例化したし、その後の私の人事異動は直接の上司よりも川重本社の大西さんや山田さん、大庭さんという本社のトップの方たちの意向で、この後10年の異動が続くことになる全く珍しいサラリーマン生活が続くことになるのである。

 

★単車事業部門との一体経営ということで創り上げた案だったので、カワ販の本社部門は場所も事業部の管理部の隣に移動してくることになり、私が常勤常務となったことで、単車事業部の管理部の各担当職務も翌年1月1日からは新しく担当が変わり田崎さんは、改めてアメリカ担当となるのである。

こののちもKMCの経営の不安定さは続くのだが、一時私の名前も取りざたされていたKMCで、田崎さんをはじめいろんな人たちがそれを言うものだから、一応の覚悟はしていたのだが突如大西常務からカワ販常務を仰せつかったので、私のアメリカ担当はこの時点で一応は消えたことになるのである。

 

         

 

 これから約3年間国内担当をすることになるのだが、このファイルにある通り『カワ販新体制』でのいろんなことがまた続くのである。

 

 ★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

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