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阪神大震災の想い出

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 ★22年前、1995年1月17日阪神大震災当時は、私も未だ現役だった。

 その日の日記である。

 

   

 

 短い文章だが『これは本当に地震なのか? 何か近くで大爆発でも起こったのではないか?』と本当にそう思った。

とても『普通の地震の揺れ』とは思えなかったからである。

ただ、神戸の隣町なのだが、三木は家が倒れるなどの被害はなくて、停電になってしまったのでテレビのニュースなどは一切見れなかったのだが、納まってしまうとこの近所は特に何もなかったのである。いつもの通り犬の散歩もして、明石の会社に車で出かけたのである。

 

★現代は常に溢れる情報社会の中に生きていて、人間の判断や、その行動はすべてそんな情報の中で自然に判断されて、具体的な行動になっているのだと思う。

停電になり、新聞はあっても地震の情報など皆無の状況では、神戸の状況など知る由もなかったのである。

朝家を出る時、停電になってしまったので『熱帯魚の水槽の水温』が20度を割らないようにと家内に頼んで家を出たのである。情報が何もない状況で私の一番の関心事は『熱帯魚の水温』だったのである。

175号線は、信号はついていなかったが、それ以外はいつもの通りで、当時の玉津の会社に出勤していたのだが、従業員はいつもの通り殆どの人が来ていて、みんな神戸の状況は解らない状況だったので、被害は倉庫の二輪車が倒れたぐらいのことだったのである。

そのあと川重の工場のほうにも出社してみたが、こちらは電車が止まっていて、出勤している人は少なかったのである。

そんな会社の状況を高橋鐵郎さんに報告すべく電話をしたら、『お前はいまどこにいるのか?』と仰るのである。高橋さんのお宅は芦屋の高台で、阪神地区の様子が一望できる立地なのである。私が出社しているなど考えられなかったのだと思う。『えらいことになってるぞ』と仰るのである。

それを聞いても未だ、どんな状況かは解らず、びっくりしたのは10時ごろ電気が通じて、テレビの映像を見て、仰天してしまったのである。

その状況は、とても推測できるレベルを遙かに超えていて、これはホントかなと思ったほどである。

 

 

 

 こんな状況は、間違いなく『想定外の状況』なのである。

 

★ 地震後の状況も、新幹線も、メイン道路も通れなかったし、新幹線が通じるまでは伊丹空港か、岡山空港からでないと東京出張も出来なかったし、伊丹空港に行くにも車ではダメで三田周りの電車に乗っての伊丹行きだったのである。

震災のあと、道路は寸断されて車ではなかなか動けない状況だったので、兵庫県警にバイクを30台ほど寄贈しようとしたのだが、普通のルートでそれを言うと『申請書を出して頂けますか』と仰るのである。流石に頭にきて明石署の署長さんに言って、申請書なしで受け取って貰ったりしたのである。

どんな状況になっても、お役所はなかなかムツカシイものである。

東北大震災の時も吉田純一さんが現地にバイクで支援に向かったのだが、その時にも確か宮城県知事からの依頼書があって初めて現地に入れたのである。

 

   

  

    

 

  この活動で吉田さんは表彰を受けられたが、そんな活動の一端を担えてよかったと思っている。

   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/a6f76fe542728ac3bb7cec8cf2f83d14

 

★ 災害は、忘れたころに突然やってくる。

 いろんな情報を覚えておいて、それに対応することである。

 大変な出来事も、過ぎてしまえば、殆ど忘れてしまっている。

 

 


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