★大分県直入町に川崎重工とし小さなサーキットを創るというプロジェクトは、普通では考えられないようなスピードで承認を得てこのプロジェクトを起案してちょうど1年で社内承認も大分県の認可も得て3月末には工事着工の運びとなったのである。
この「プロジェクト」がスタートしたきっかけは、土地の購入条件の中にあった直入町の要求を全うすることが直接の要因ではあったのだが、私自身は、レーサーレプリカ全盛時なのに各メーカーはそれを売るばかりに熱心で、世に『峠族』と非難されているような状況なのに、各社のサーキットは依然として一般ユーザーには開放しない状況は、どうも納得できなかったのである。
どうしても一般のユーザーが走れる『日本で初めてのサーキット』を創りたかったのである。
なぜ、そんな発想が出たのか? 私はカワサキの初期ファクトリーレースに関係していて、出来たばかりの鈴鹿サーキットにもよく足を運んだのだが、当時の鈴鹿サーキットは、4輪のS600ではあったが『おカネさえ払えば』誰でも1周だけだが走れたのである。そんなことで、私自身が鈴鹿サーキットは何回も自分の運転で走った経験があるので、その経験から一般の人が1周だけサーキットを走るとき、そんなに無茶な走りなどしないのである。
そんな『二輪専用のサーキット』が創りたかったのが一番だったのである。
これは3月に発想して2ヶ月後の5月に工事を担当してくれる三井不動産に渡した コースの明細の一部で、岩崎茂樹と私とで造ったものである。 三井不動産もサーキットを造った経験などないので、この指示の通りに動いてくれたのである。
私はともかく「岩崎茂樹」はこんな新しい知識を得るためにはほんとに一生懸命勉強するし2ヶ月でこれくらいのレベルには達していたのである。
こんな簡単なメモのようなコース計画だったのだが、現実にほぼそのコンセプト通りにサーキットは出来上がっているのである。
『SPA直入』と画像検索すると、こんな写真が並ぶのである。当初の基本コンセプト通りに運営されているし、Facebookには『I LOVE SPA直入倶楽部』https://www.facebook.com/groups/506183092728388/?fref=ts というグループがあって、健全な二輪のレース活動をやってくれているのは嬉しいことなのである。
緑豊かな直入町で現場は全くの山中なのである。
そんな素晴らしい景観を借景に小さくても『日本で一番美しいサーキット』を目指したのだが、それは実現したと秘かに胸を張っているのである。
★ これが2か月後の5月初旬に纏めた具体的な『基本コンセプト』なので、上記の表は、その一部の仕様なのである。
● 全長2キロまでの初心者でも走れる小さなサーキット
● 実行予算は3億円を目途とする
この基本コンセプトを工事担当の三井不動さんに渡したのだが、1ヶ月後に三井不動産から受けた見積額は『7億8500万円』と出て、これは次の私の自筆のメモにもあるように『お話にならない』ので再度1ヶ月後に再見積もりをお願いしたのである。
この見積もりで解ったことは、サーキットなど造成するときに、一番金がかかるのは『土を動かす量』なのである。この案は土地が平らになるようにまで土地を削っているので、その『土量』の費用が膨大なのである。動かす土の量が減るように登り斜面をそのまま使う『登りのコース』ににすることで半減できるはずだと申し入れて、約束通り7月に3億円の見積書を貰って9月の川崎重工の経営会議で承認されて、正式GOとなるのである。
★『サーキットを造る』という全く経験のないプロジェクトなのに、川崎重工という企業の中で、起案から承認まで6ヶ月というのは信じられない速さだが、これは末端が起案しているのではなくて、少なくとも営業部門のトップである私が起案・行動し、細部は部下のそれぞれの専門家が動いてくれるからできる話で、部下に起案などやらしたのではとてもこうは行かないのである。
私が橋下徹さんや、小池百合子さんを応援するのは、大阪も東京も基本構想を考え且つ動かしているのは、トップの橋下徹であり、小池百合子さんなのである。一時佐賀県武雄市の樋渡啓祐さんを応援したのも同じような理由からである。
すべからくトップに立つ人は、確りとした『基本コンセプト』と『その基本構想』までは、TOP の責任として示し自らが動かないと大きな仕事はできないのである。このような動きが『時間短縮』に繋がるのである。そして『時間の短縮』が一番のコスト削減なのだが、それを解っていない経営TOPが多すぎる現状なのである。
この半年間、確かに『直入のサーキット』にも傾注しているが、いろいろ資料をめくっていると、これだけをやってたわけではなくて、アメリカのKMCのデーラーミ―テイングにも出張しているし、KMCで掲げた100億円の累損消去がこの年で達成しているのである。
またソウルオリンピックのあった年で9月13日から18日までは世界のジェットスキーのトップライダーたちをを引き連れてその団長として『ソウルオリンピック』での『ジェットスキーのデモンストレーション』などもやっているのである。
http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/1c9054d9f38219c730c3b108d67e4ba3
『ソウルオリンピック』という結構大きなプロジェクトなのだが、これはすべて『鶴谷将俊』くんで充分できると判断していたので100%彼に任せて、私は9月13日からの日程だけ体をあければそれで大丈夫だったのである。『鶴谷将俊』くんは、二輪事業のリーダーとしては最適の人だったと思うが、何故か『本部長』をやる機会がなかったのである。若し彼が本部長をやっていれば、また違った面白いカワサキが見られたと思うのだが・・・
★ちょっと脱線したが、私自身は『営業総括部』は2年間で卒業して昭和63年10月(1988)からは国内営業担当としてカワサキオートバイ販売に専務として赴任するのだが、この直入のプロジェクトは『いいお土産』になったのである。
従ってこの年の10月からは新しい職場で『やらねばならぬここと・やりたいこと』がいっぱいで 、『SPA 直入』関係については、大分県への申請などの諸手続きぐらいで、認可申請は89年の2月14日、翌月の3月には高橋事業本部長が大分県知事に表敬訪問などもあったのだが、89年3月29日には工事着工出来たので起案以来ちょうど1年で工事がスタートしたのである。
建設期間はほぼ1年かかって1990年4月3日に正式オープンするのだが、その時点でこの『直入町サーキット』は『SPA直入』という正式名称でオープンするのである。
このネーミングに関して『SPA 直入と樋渡平雄さん』http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/4d89c51eeaf7864be64dce448948b2c0
と題したかっての私の過去のブログの中にこのように紹介している。
二輪に関して何事も詳しかった岩崎茂樹が「SPA直入」の名づけ親で、そのSPAは確かに温泉という意味もあるのだが、ベルギーの有名サーキット、スパ・フランコルシャン とかけてのSPA なのである。
★4月3日にオープンして社内の種々の行事などもあったのだが、4月15日の日曜日に『SPA直入オープニングフェア』と銘打って、レースライセンスを持ったライダーたちの『スポーツライデイング』と共に、一般ライダーが自分のバイクでサーキットを走る『エンジョイライデイング』を日本で初めて実施したのである。
『エンジョイライデイング』とは、サーキットに集まった人たちが自分のクルマでコースを1周するのである。当日集まった何千人のライダーたちをカワサキのライダーたちが先導してコースを1周する光景は誠に壮観だったのである。
日本で一般ライダーがサーキットを自分のバイクで走ったのは、1990年4月15日が初めてなのである。このSPA直入の走行を見て、日本の各地のサーキットが一般ライダーの走行を実施するようになったのである。
レーサーレプリカなどに乗るユーザーたちに『走る場所の提供を』というサーキットを創った『基本コンセプト』はこの日の『エンジョイライデイング』を契機に実現していくことになるのである。
このイベントには、カワサキのライダーたちも日本の錚々たるメンバーが顔を揃えてくれたのである。
宗和・多田・北川・鶴田の現役ライダーに加えてカワサキOBの清原明彦・和田将宏とまだ当時はヤマハの契約のあった金谷秀夫も顔を揃えてくれて、サーキット走行をしてくれたのである。
当日は、予想もしないほどの人数の一般ライダーで、SPA直入は埋めつくされて、開会式のごあいさつで岩屋万一直入町長は、『有史以来この直入の地に最大の人たちが集まった』とご挨拶されたのである。
確かに、直入町に4000人の人たちが集まったのは、この1日だけだったのかも知れないのである。
当日の開催報告であるが、いずれも約と書かれているが、とても台数を数える余裕などはなかったのである。
『一般のライダーたちが走れる小さなサーキット』という私が描いた夢は、2年の歳月ののち、平成2年4月15日に実現したのである。あのSPA直入のパドックもコース上も二輪車で埋めつくされた壮観さは今でも私の脳裏に焼き付いている最高の1日だったのである。