★アメリカに1ヶ月ほど遊びに行っていたのだが、その間日本では百合草三佐雄さんのことなど、こんな情報が流れたりした。
会社勤めをしていると、いろんな方と繋がって知り合ったりはするのだが、一緒に『仕事をする』という機会はなかなかないのだが、この時代 百合草三佐雄さんとは、ご縁があって同じ目標に邁進した最も信頼できる仲間なのである。
「ニンジャ」開発、米で“サムライ”と呼ばれた男-飛燕・屠龍…航空機開発の系譜から生まれた伝説のバイク(上)
http://www.sankei.com/west/news/160922/wst1609220007-n1.html
席捲したカワサキのポリスバイク、“欠陥”の濡れ衣で敗訴も起死回生の逆転劇…“サムライ”と呼ばれた男(下)
http://www.sankei.com/west/news/160922/wst1609220007-n1.html
この二つの物語は、ちょうど私が企画室長をしていた1980年代半ば以降の時代のことなのである。
その中にはこんな一節もある。
百合草さんはA1、Z1、そしてGPZ900R初代“ニンジャ”などカワサキを代表する歴代名バイクの開発に関わってきた生粋のエンジニア。51~56年にはKMCのR&D(研究開発)所長として米国でバイク開発に携わっていたが、85年のKMC社長としての米国赴任は異例ともいえる指令だったという。会社は“カワサキのバイクを知り尽くした男”に米国市場での社の命運を託したのだ。・・・・・・
百合草さんは、昭和35年川崎航空機入社で、私は昭和32年入社なので、ちょっとだけ先輩なのである。
1980年代はのち川重社長をされた大庭浩二輪事業本部長のころで、カワサキの二輪事業が生きるか死ぬかの大変な時代だったのである。その中心は最大の市場アメリカを担当するKMCの大赤字対策で、KMC社長には昭和33年入社の田崎雅元さん(後川重社長)が当たっていて、やっと年間黒字にはなったのだが、KMCには過去の38百万ドル当時の日本円に換算すると100億円近い累損があった時代であった。
『その累損消去をして文字通りKMCを健全な販売会社に再建する』と言うのが私自身、企画室長としての大きな目標だったのである。
『私自身の』と敢えて言ってるのは、これは『会社としての目標』ではなくて、私に与えられた会社としての目標はあくまでも、『海外販社の年間損益の黒字化=健全化』だったのだが、私自身が勝手に『100億円の累損消去』と言う途方もない目標を樹てたのである。
その具体的対策として、田崎さんが社長をしていたKMCには当時の国内販社カワ販から、冨永・日野くんという販社経営の実戦的なノウハウを持っているメンバーを送り込んで、本社財務からも出向していた若手たちと一緒にKMC再建に当たりようやく期間損益の黒字化は達成できたのである。
第1段階の目標は達成できたのだが、田崎さんの次の社長を誰に託すのか?と言うのははなかなか難しいテーマだったのだが、百合草三佐雄さんを推してそれがすんなり通って、1985年4月から半年間ほど百合草さんは企画室に異動して、一緒にいろいろとその対策など話しあってのスタートだったのである。
★あの時なぜ、百合草さんを推したのか?
当時のKMCの経営は単なる一販売会社の経営ではなくて、カワサキの二輪事業にも、川崎重工業本体の経営にも大きく関わる問題で、本社財務部門の総力を挙げての応援体制であったし、事業本部サイドも企画室内に初めて関連企業部を創って販社経営に詳しい前田祐作、財務のプロ小川優くんたちが具体的にKMCの支援に当たっていたので、KMCの社長として一番に求められるのは、『リーダーシップ』と言うか全体を纏められることが第1だと思ったのである。
それまで特に私は、百合草さんと直接仕事をする機会は少なかったのだが、彼は既に当時のカワサキのレース部門を海外・国内を含め、技術問題からライダー管理まで広い範囲で、カワサキが初めてその体制を確立していたその責任者だったのである。当時カワサキは経営問題では大ピンチだったのだが、レース関係ではあのKR時代で最も輝いた時代なのである。
レース関係については私もその立ち上がりに時期に担当してその難しさは経験しているので、レース活動をまとめ上げた『百合ちゃん』なら大丈夫と思ったのである。
★百合草さんがKMC社長になって、すぐ私自身も企画から営業に移り、さらに国内担当に異動したのだが、私が百合草さんに託した『KMCの累損消去』という課題は、KMC百合草社長時代の1989年に見事に実現したのである。カワ販からの出向の冨永・日野くんもこの目標を達成しての国内復帰となったのである。たまたまだがこの二人を送りだしたのも、迎えたのも私が国内を担当した時期なのである。
KMCの累損消去を達成して、当時の川重大西副社長以下関係したメンバーたちで神戸でお祝いをしたのをよく覚えている。私にとっての現役時代、KMCの累損消去は一番の大仕事だったので、そのムツカシイ目標を実現してくれた『百合草三佐雄』さんには今でも大いに感謝なのである。
★話は突然変わるが、『カワサキZの源流と軌跡』という本が出ていて、今回改めて内容は同じなのだが白い表紙で新発刊されたのである。
この本は、濱脇洋二・大槻幸雄さんを中心に10人ほどのメンバ-の共著なのだが、百合草さんも私もそのメンバーに入っている。
ここが百合草さんの担当された部分で、
最初に紹介されている『ポリスバイク』の話なども、より詳細に百合草さんの手で書かれている。
この新刊が出たのはごく最近のことで、私がアメリカに遊びに行っている時、この本の出版元の三樹書房の社長さんからこんな新聞広告もしましたと、メールと共に新聞広告の写真まで貼付されてきていたのである。
★ 川崎航空機が二輪事業を立ち上げるべく、多くの新入社員を採ったのが、百合草さんが入社した昭和35年なのである。この年次の人たちがカワサキの二輪事業の中核を担ったと言い切っていいだろうと思う。
あまり数が多いのでとても名前を書ききれないが、当時の企画室で私を支えてくれた企画部長武本一郎・生産企画部長大前太さんがそうだし、ご存じの方も多い 種子島経さんなども昭和35年組なのである。
そして明石工場で二輪車の一貫生産が始まったのが、昭和35年なのである。高橋鐵郎さん、大槻さん、私、田崎、稲村さんなどそれ以前に入社していた人たちが単車事業に異動してきたのも昭和35年からなのである。
ご縁があって『カワサキの二輪事業』で繋がって、それからもう60年以上も経つのだが、まだこうしていろいろと繋がっているのである。大槻さん・稲村さん・百合草さんなどは、ゴルフのZ1会でもご一緒で年に何回もお会いできるし、Facebook でも繋がったりしているのである。
そんなカワサキのメンバーたちは、結構ユニーㇰでオモシロいので、少し詳しく知りたい方は『カワサキZの源流と軌跡』でもお読みになればいいと思っている。
こんな執筆者が名を連ねていて、私も最後に国内のマーケットなどのことを書いている。
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