★ カワサキの二輪事業のスターの頃のこんな年表を見つけたのでその頃の昔話を・・・
私が 川崎航空機工業に入社したのは昭和32年(1957)で財産課に配属になったのである。
戦後、川崎航空機が軍事産業だということで休止していたころ、播州歯車工場でホンダさんのミッションの歯車などは生産していたし、高橋鐵郎さんがおられた高槻工場では二輪のエンジンの研究もされていたようである。昭和27年(1952)に川崎航空機が再開されてから、発動機の小型エンジンやジェットエンジンのオーバーホールなどと同時に、明発工業に二輪車のエンジン供給はしていたのである。
私が入社した昭和32年ごろは、会社の経営もなかなか苦しかったのだが、戦前の川崎航空機時代の機械などはそれこそ大量に残っていて、営業収入の不足した月は、財産課がそんな機械を売って繋いでいた売り食いの時代だったのである。
ただ、東洋で唯一の米軍のジェットエンジンオーバーホール工場があり、米軍が常駐しており、そんな時代にカフテリアがあってコーヒが飲めたし、IBM室があってその部屋は今で言うエアコンがあったりしたのである。そんなことで財産課での私の初仕事は、財産物件の償却計算のIBMでの機械化をやったりした。 日本にIBMの会社も未だなかった頃のことで、世の中よりは10年は進んでいたのである。
二輪車の一貫生産化方針を決定し単車準備室が出来たのが1959年の末で、その準備室の準備は資材購入や生産準備関係が主で、実際に営業部門に単車営業課が出来たのは、昭和36年(1961)12月のことで、私はその発足とともに異動になったのである。これは財産課での償却計算を機械化したら、手動計算機で年中償却計算していた10人ほどの課員が要らなくなったからかも知れないのである。
単車営業課には係が二つあって、一つはメイハツ関係、もう一つは井関農機のタフ50など空水冷のモペットの井関関連のだったのである。
私は、その中の『メイハツ関係』の係の配属になったのだが、係の中には『品質保証部門』の機能を担当するサービス3人も入れて、係長以下7人だけのこじんまりした形でスタートしたのである。この7人のうちずっと二輪に関係したのは、私とサービスにいた福田泰秀くんの二人だけで、彼は品証に移り、さらにカワ販にもいたので、ご存じの方も多いと思う。
当時の国内販売は、メイハツ工業から社名変更し、東京の神田岩本町に本社のあった『カワサキ自動車販売(株)』が全国を担当していて明石の営業部門はそこに繋ぐ管理部門のような役割だったのである。
現在の事業部の機能で言えば、企画・営業・品証などの機能を『7人で担当』していたのである。
兎に角、川崎航空機は、メーカーで生産工場が主たる機能だったのに、自分の造ったものを自分で販売してそのアフターサービスも担当するなど、今まで誰もやったことのない『経験のない』仕事だったのである。
私は入社4年目の未だ若手だったが、上司の課長も次長も、こんな事業は初めて経験する初心者ばかりで、何も教えてはくれないので、勝手にいろいろとやらなければいけない環境だったのである。
★ この新しい課に異動した第1日に小野助治次長に呼ばれて、最初に指示されたのは『物品税をよく調べてくれ』だったのである。
いきなり『物品税』と言われて何事かと思ったのだが、当時はこの年表にもあるように125ccB7の生産を1月から、6月からは50ccモペットM5の生産をスタートしていたのである。
そして、当時は125㏄以上のオートバイには、贅沢品に掛けられる物品税が掛けられていたのである。
物品税は工場出荷時に掛けられるのだが、納入する場合は至極簡単で、出荷台数に対して台数分を掛けるとそれでいいのだが、工場にそのバイクが返却された場合は、『物品税の戻入』が認められるのだが、これは出荷時と違って1台、1台、税務署員の立ち合い検査があるし、その手続きも大変なのである。基本的に工場を出荷したままの状況でないと、走行距離が出てたりしたら『戻入』は認められないのである。
ところが、この125㏄B7 はフレームに欠陥があって、毎日、毎日全国各地から、欠陥車が戻ってくるのである。営業はモノを出荷するところだと思っていたら、毎日、明石税務署とのお付き合いで、返却されるバイクの立ち合い検査や、その戻入手続きで大変だったのである。
明石工場は結構広いのだが、返却されたB7の置き場に困るぐらい大量に戻ってきて、私が営業2ヶ月目の昭和37年1月度の明石工場の生産台数は16台のマイナスになったのである。 出荷した台数よりも戻ってきた台数のほうが多かったと言うのだから、その数は大変な数だったのである。
物品税の戻入は出荷した状況のままが条件だから、ちょっとした走行距離でもダメなのだが、中にはメーターが回っているのもあって、生産技術のメンバーが『メーターの巻き戻し』など、その辺の中古車屋さんのようなこともやったりしていたのである。
いずれにしても、B7には『いい想い出』は一つもない。
兎に角、フレームが割れるとか、折れるとかそんな話ばかりなのである。
大体、川崎航空機の明石工場は、元々飛行機のエンジン工場で、岐阜が機体の工場なのである。それが戦後飛行機が作れなくなって、明石は小型エンジンや、歯車ミッションを、岐阜はバスボディなどを造っていたので、明石工場の技術屋さんは、エンジンはともかく、フレームは経験がなかったのだと思う。
このままでは、この事業も終わりなのだが、2年目からの2代目の125ccB8は、特に登坂力など抜群で好評で、ご存じモトクロスでの活躍もあって、何とかカワサキの二輪事業の希望が見えてきたのである。
★ 当時は日本には、オートバイメーカーは幾つあったか解らないほどあって、100社以上あったことは間違いないのである。
三菱重工業も、富士重も、新明和も、東発も、ブリジストンなどの大企業も二輪事業をやっていたし、メグロや、ライラックなど所謂二輪専門メーカーもいたのだが、名前も解らぬような中小企業もいっぱいで、浜松のホンダ・スズキ・ヤマハも当時はまだ所謂『ベンチャー企業』で、その将来が万全であったとは言えなかった群雄割拠の時代だったのである。
そんな中で、一番先に抜け出したのが、カブを発売した本田技研なのである。今の鈴鹿サーキットをホンダが完成させたのは昭和37年で、その年の11月に開催された日本初の本格的ロードレースをバスを仕立てて見学して、それが翌年6月の青野ヶ原モトクロスへの出場に繋がり、本格的なカワサキの二輪事業への進出の決心をするきっかけともなるのである
そして、日本の二輪事業は浜松のホンダ・スズキ・ヤマハが、海外進出や、GPレースへの参加など世界を視野に事業展開を行う方向としたこともあって、中小メーカーは脱落したし、三菱以下の大企業も二輪業界から撤退してしまうのである。
端的に云えば、ホンダ・スズキ・ヤマハとの市場競争に、各社は付いていけなかったのである。中でも、本田宗一郎さんが引っ張ったホンダの身軽さやスピードに、既存の重工業の重い体質では無理だったのか?それとも二輪事業に魅力がなかったのか?
そんな中で、ひとりカワサキだけが、浜松3社と一緒に生き残ったのは、いろんな理由があるのだろうが、
● カワサキの初期の営業と言うかマーケッテングは、国内ではメイハツや、メグロの人が担当して、川崎航空機のメーカー体質の人がやらなかったので、何とかホンダ・スズキ・ヤマハに付いていけたのだと私は思っている。そんな中に私や、より若い人たちも参入をしたのだが、当時のマーケッテングのメインは、『カワサキ自動車販売』のメンバーだったのである。
●このカワサキ自販の主力は、旧メイハツやメグロの人たちだったのだが、社長は川崎航空機の土崎専務取締役が兼務されていて、メーカーの『明石工場』に対しても、圧倒的にその発言権は強かったのである。所謂、『末端の声』に対して『メーカーは部下』と言う関係だったので、これは今の事業本部体制と全く逆で、末端の声が『神の声』だったのである。
さらにその時代は地域の代理店の発言権が、カワサキ自販よりもさらに強く、『販売会社はメーカーの部下』と言う関係しか知らない現役諸君には、当時の状況は想像もできないと思うのだが、ある意味、なかなかよかったと思っているのである。
● その時代からは何年か後だが、昭和44年の川重・川車・川航の3社合併時に、小型50ccのモペットの生産を打ち切り、中大型車スポーツ車に絞り、海外市場主力の展開としたこと。その中心となったアメリカは、二輪に詳しいアメリカ人を中心にした徹底した『現地主義』を貫いたこと。
● 中大型スポーツ車のエンジンに関しては、技術部門に所謂『エンジンのプロ』がいたこと、製造部門については、当時の東洋で唯一のジェットエンジン部門からの技術屋さんが多数異動して来て、非常に進んでいたアメリカ流の生産管理ノウハウが、二輪生産部門に適用されたこと。
●兎に角、事業展開の『中枢』を若い人が担って展開したこと。
などなどだろう。
一言で云うなら、当時の川崎航空機は、エンジンメーカーではあったが、『二輪事業の経験』など皆無だったのである。
私なども入社数年目の所謂若手だったし、海外販社に出向いた人たちもその殆どが、私よりもさらに若い人たちで、指示を受ける上司などいない環境だったのがよかったのだと思っている。
当時の川崎航空機の技術屋さんも、エンジンに関しては、間違いなくプロなのだが、『オートバイは解っていなかった』と言ったほうがいいと私は思っている。
私は1966年までの創成期のレースのファクトリーチームのマネージメントを担当したのだが、当時のモトクロス車の制作は、エンジン開発は技術部だが、マシンに仕立てるのは製造部のモトクロス職場の、兵庫メグロからやってきた松尾勇さんが全部創り上げたのである。モトクロス車が技術部ですべて担当されたのは、それからさらに数年後、モトクロス車にKXのネーミングが付けられてからである。
誤解を恐れずに極言すると、当時の技術屋さんは、川崎航空機に飛行機のエンジンがやりたくて入ってきた人が多くて、二輪車のエンジンなどやるのは、もう一つオモシロくないと思っていた節がある。
Zの開発責任者をされた大槻幸雄さんも、ずっとレースなど担当されていて、最初に市販車の開発を担当をされたのは、あのH2で、途方もない2サイクル3気筒エンジンだったし、そのあとは世界の名車Z900,さらにそのあとは1300、6気筒エンジンなど、常に世界で一番を目指すなど、『二輪のエンジンをやるのなら・・・』と言った感じだったように思う。
250A1以降のスポーツ車のエンジンは、確かにカワサキ独特のものがあって、そのスタイルの新鮮さは、川崎航空機のデザインルームの努力もあるのだろうが、発想の原点は、オートバイに関しては詳しいアメリカ人の発想がその原点なのだろうと思っている。世界の名車と言われたZのエンジン開発担当は稲村暁一さんだが、フレーム担当はメグロから来られた富樫俊雄さんである。
初期の段階のカワサキは、二輪事業の経験がなかっただけに、販売でも車種開発でも、川崎航空機以外の人の知恵を上手に取り込んで、当時の『カワサキ』が出来上がったのだと思っている。
★ その後カワサキの技術陣も、二輪のプロたちが育って、今はそんな末端の力を得なくても独自に開発も生産も、川崎重工業の二輪事業部の中だけで出来る環境と実力を備えているのだと思うのだが、
『カワサキのブランドイメージ』を創り上げたそのベースは末端のアイデアや力に負うところ大だったと思っている。
末端の市場に近いところにいる人たちの発想は、世の中の進歩の中で発想されるので貴重なのである。
そんな末端の人たちの発想が事業の先頭を走った『現地主義』華やかだったカワサキの創世期の時代だったのである。
カワサキだけでなく二輪業界を本田宗一郎さんが引っ張って、みんながそれに追随した二輪業界の元気な時代が懐かしいなと思う今日この頃なのである。
マシンだけは、確かにこんなに素晴らしいものが完成するのだが、
『そのトータルの物語』が真面目すぎて、もう一つオモシロくないな と思ってしまうのである。