★ 『ジェットスキーの本格的な事業化』
元々ジェットスキーはアメリカ人のアイデアの特許を発動機事業部が買い取って、発動機のエンジンを使い、アメリカのリンカーン工場で生産しアメリカ市場でだけ販売していた商品なのである。
従って単車事業本部の明石工場のメンバーたちは、誰一人関与していなかったと言うよりは、製造者は川崎重工業ではなくてリンカーン工場と言う不思議な『継子事業』のような感じの事業だったのである。
それを正規の事業として本格的に「取り組むべし」と提案してくれたのは、私の企画室長時代企画部長として援けてくれていた武本一郎さんである。
その発想も意見もまともなのだが、1985年当時は単車事業本部内にそれを担当するセクションなど皆無で、具体的に展開するには『新しい何かを』創らなければどうしようもなかったのである。
さて、どのように展開するかと考え始めたそんな時、オーストラリアの販社の社長をしていた鶴谷将俊くんが85年9月に帰任したので、彼こそが一番の適任だと思ったのである。
一国の販社の社長をしてきた彼に部下もいない、正規のセクションもないプロジェクトを担当させるのは、ちょっと気が引けたのだが『新しい事業』こそ実力者がやらないと実ったりはしないのである。
武本部長の企画部の中に、勝手に『ジェットスキー担当部門』を作ってスタートしたのだが、明石の単車事業本部の中にはジェットスキーに乗れる人すらいないのである。
発動機に趣味でジェットスキーのレースをやっている福井昇くんと言うのが居るというのを聞きつけて、たまたま彼が私と同期の藤川哲三さんの下にいるというので強引に貰い受けて、鶴谷、福井のコンビでスタ―トすることになったのである。藤川さんは、若い頃ジェットスキーのエンジン開発を担当していたので、それを本格的な事業に展開したいという私の話に乗ってくれたのだと思う。
★このプロジェクトは、企画室内で勝手に立ち上げたもので、当初のメンバーは『古谷・武本・鶴谷・藤田・福井』の5人でスタートし、徐々に広げた形なのだが、いま思うとこれは最強のメンバーであったと思う。
●古谷錬太郎
私が総合的に旗を振り、主として販売面の仕組みの構築を起案したり、国内のレース組織JJSBAの設立をアメリカのIJSBAに当時の田崎雅元KMC社長に仲介を頼んだりもしたのである。
軌道に乗ってからも国内のジェットスキー販売会社の社長や業界のPWSA会長なども引き受けてお手伝いはさせて頂いたのである。
●武本一郎
昭和35年入社の東大卒の英才である。私が最初に企画部企画課担当時代の係長で東南アジアのCKD事業を始めたとき陰で手伝ってくれたご縁などあって、二輪事業の再建に二度目の企画担当を仰せつかった時、その企画課長に真っ先に指名したのが武本一郎くんだったのである。昭和35年入社は英才が揃っていて、百合草三佐雄、大前太、種子島経くんなどみんな35年組なのである。
大庭浩本部長時代の大庭さんのムツカシイ宿題をすべて処理してくれたのは武本一郎くんであり、先述したように『本格的なジェットスキー事業の展開』を提案してくれたのも武本一郎くんなのである。早く逝ってしまって本当に残念なのである。
当時のジェットスキーは JS400/500の2機種で、アメリカ市場だけでコンスタントに8000台ぐらいの販売だったのだが、これを440/550ccにボアアップしたら、突然アメリカ市場だけでも2万台も売れだしたりしたのである。
このボアアップするための開発費などは、正規の事業になっていないので、とても貰える訳もなく、武本一郎さんが『忍術を使って』生産関係の予算から捻出したはずなのである。それを技術本部で引き受けてくれたのが百合草三佐雄くんで、私はそのあたりのことはすべて武本くんに任していたので詳細はよく知らないのだが、このボアアップしたジェットスキーが売れに売れて、当時の二輪事業の危機を救った一つの商品になったことは間違いないのである。
●鶴谷将俊
彼とは、開発途上国市場をスタートさせたとき、岩崎茂樹くんとのコンビでイランを担当してくれた時に初めて出会った。山登りが好きで、会社を1年間休んで山に登っていたという豪傑である。
CKD市場担当の後、オーストラリアの販社の初代社長として出向して、その任を終えて帰任して、ジェットスキー事業を担当してくれたのである。スタート以来約10年間、彼が カワサキのジェットスキービジネスを育てた と言っていい。
ずっと川重の営業部の籍のままではあったがJJSBAのジェットスキーレースも、国内のKJSと言うジェットスキー専門の販売会社も鶴谷くんが旗を振ってくれた。当時のJJSBAの国内レースは琵琶湖や福井県千里浜海岸で開催され1000台のエントリーがあった最盛期なのである。
末端市場を見ることに興味・関心があって、私を誘って二度二人で末端状況視察の海外出張をしている。
ヨーロッパでは、ドイツのボートショーを皮切りに、ボーデン湖ースイスースペインのジブラルタル海峡からの海岸線ーフランス―イギリス を殆どレンタカーで移動したり、オーストラリアでは、彼の元担当国なので、小型飛行機で中央部まで飛びそこからはレンタカーで、普通の人は知らないオーストラリアを経験したのである。
ヨーロッパに J/Sヨーロッパ と言う新会社を設立したのも鶴谷くんである。多分現在のKawasaki ヨーロッパは、このJ/Sヨーロッパがスタートで、鶴谷くんはその後アメリカのKMC社長や、Kawasakiヨーロッパの社長などを歴任するのだが、最後は川重商事の社長をされたのである。
個人的には、カワサキの二輪事業本部長を若し彼がやっていたら、また変わった『カワサキ』が見れたのではないかと思っているのである。
これは1988年ソウルオリンピックの開会式の当日、オリンピック組織委員会からの要請を受けて、競技場のすぐ前のハンガン(漢江)でジェットスキーのデモンストレーションの依頼があって、オリンピックということで日本・アメリカ・欧州・オーストラリアから男女のチャンピオンを集めたチームを構成し、私がその団長を務めはしたのだが、このプロジェクトを実際に進めてくれたのは鶴谷将俊くんなのである。
このメンバーには初代JJSBAの苧野豊明会長・鶴谷将俊・藤田孝明・福井昇くんや大南勝也・金森稔・松口久美子さんなどの黎明期を支えたメンバーたちが参加したのである。
●藤田孝明
彼とは会社では本当に長いお付き合いで、私が最も信頼していた一人である。昭和32年の川崎航空機の同期入社である。
入社当時は野球部のチームメイトで、私と三遊間を組んで、1,2番を打っていた仲間なのである。
1973年カワサキが特約店制度に踏み切った当時は、京都営業所長だった。大阪・京都・名古屋で特約店制度はスタートしたのだが、京都が一番徹底して立派に創り上げたのである。
その後名古屋の統括所長も彼に頼んだし、一番問題の多かった東京都対策も藤田くんに任したのである。さらに西日本地区を担当したりしたのだが、彼の行くところ販売店との関係はみんな抜群だったのである。川崎重工籍なのだが、川重での役職などには一切興味を示さなかった珍しい存在だったのである。
このジェットスキーの販売網を国内で一からスタートさせるとき、私は躊躇なく藤田孝明を二輪の東京市場の責任者から引っこ抜いて、たった一人で最初はスタートしたのである。
ジェットスキーは、国内の新商品で従来西部自動車が逆輸入してボート屋のネットワークで年間200台ほど販売していたのだが、この商品のレースを中心とする独特の遊びの分野は、それなりに専門店に育てなければ将来はないと思ったので、たった200台しか売っていなかったのに、専門店を創る方向を採ったのである。
全くの白紙の状態からカワサキのジェットスキー販売網は全国に見事に展開されて数年後、最高では7000台の販売を記録し販売会社もその販売店も、折れて曲がるほどの利益が出たのである。
藤田くんは、口数の少ない地味な存在なのだが、彼のことを悪く言う販売店を見たことがないのである。彼が私に紹介してくれた店の一つが『月木モータース』のあの月木さんである。
●福井昇
若し、カワサキがジェットスキーの本格的な進出を展開しなかったら、福井昇くんは、川崎重工業の発動機事業本部の中で普通一般のサラリーマンで終わったに違いないのである。
『ジェットスキーに乗れる奴がいる』ということを聞いて、発動機に彼を貰いに行ったことから彼の人生は変わったと思う。
最初は、ヨーロッパ市場の開拓などをやっていたのだが、いろいろあって国内のジェットスキー販売店網を創ると言った時、彼は手を上げて、川重を退社し、ジェットスキー専門店国内第1号店を立ち上げたのである。この面倒を徹底的に観たのが藤田孝明くんである。
『ジェットスキープラザ明石』 http://jsp-akashi.com/
が彼の店である。もう30年にもなるのだが、その間彼は大成功で、巨万の富とは言わぬが、趣味のミニトレインの線路を庭に設置して楽しむほどには成功したのである。
余談だが、福井昇くんとは最近でもいろいろとお付き合いがあり、カワサキワールドの恒例行事となった神戸のメリケンパークの『ミニ鉄道フェスタ』の起案者は福井昇くんで、それを田崎雅元さんに私が頼んで実現したのである。
ちなみに彼はNPO The Good Times の理事もやってくれていて、30年変わらぬお付き合いが続いているのである。この週末21日の理事会でお会いできるのが楽しみである。
★ この間、成功話ばかりではなくて、今なら考えられない失敗話もあるのである。
先述したように、ジェットスキーは発動機事業部の商品でありそのエンジンも発動機事業部のエンジニアの開発によるものなのである。
当時の技術本部長は安藤佶郎さんで、単車独自の300cc小型高性能のエンジンを積んだ小型のジェットスキーを創って『もっと数を売ろう』というコンセプトの JS300 の開発を考えたのである。
二輪車の場合は、一番数が売れるのは50ccの小型モペットで、それは小型で初心者の入門車として量販できるので、単純にジェットスキーでも『手軽な小型のモペット』を創ろうとしたのである。
この機種の開発段階のテストランに、一般のテストライダーと共に福井昇くんも参加したのだが、その商品評価会議で、福井君くんが『これはダメだ。走っていたら突如転倒してしまう』と発言したらしい。
これは二輪の常識で発想した技術部の『間違いだったのである』 二輪車と違ってジェットスキーのような水の上の乗り物は、小さいと安定しないのである。小さな車体に高性能のエンジン積んでアクセル吹かしたら『不安定』になって、福井くんでも転倒してしまうのである。
このマシンは、福井くんの意見を聞かずに、そのまま開発され上市されたのだが、殆ど売れずに失敗作になってしまったのである。
こんな話は冷静に考えると私でも理解できる話なのだが『小型のジェットスキーを大量に』と言うと二輪関係者は、モペットのイメージで錯覚してしまうのである。
★ ところで『ジェットスキー』と言うのはカワサキ独自の商品名であることをご存じだろうか?
ヤマハさんがこの分野に参入されたのは、1986年で、86年の1月にヤマハの小宮常務がわざわざ明石まで参入のご挨拶に来られているのである。
そして1990年に業界としての安全協会を立ち上げたのである。
それがPW安全協会で、PWとは『パーソナル・ウオータークラフト』なのである。
http://www.pwsa-jp.com/company/activity/
業界の先駆者ということで当時のPWSAの会長職は、カワサキで私も会長職をお引き受けしたりしたのだが、そんなこともあって、当時ヤマハさんとは、本当に仲良くさせて頂いた。
その業界の会合も所謂私が議長をさせて頂いたのだが、一般の業界の会議とは違って、ヤマハの方から『社内会議』みたいだと言われてホンネの討議がなされたのである。年に1回の総会には中央官庁のお役人が出席されて、課長の祝辞代読などされるので、出席される方にそんな形式的なことではなく、あなたのご挨拶を是非とお願いしたら、2年目からは、ご自身の言葉で本当にいいお話をされたのが印象に残っているのである。
どうも、日本の特に業界の常識は、おかしなことが多すぎるのである。逆に中央官庁に新年のご挨拶に伺うと、メーカーではそっけない対応だが、業界代表となると それなりに対応が変わるのも不思議だなと思ったが・・・
80年代後半から、90年代にかけて、ジェットスキー黄金時代が続いたのである。
そして、ジェットスキービジネスは30年経った今、こんな300馬力の1台自動車並みの価格の商品が並んでいるのである。
ある意味、JS300も小型ジェットスキーを発想した時代が懐かしい気もするのである。
★三木 緑が丘 サンロードを愛する人のカイ!のホームページです