★母は103歳まで長生きしたのに、父は52歳で、私が高校3年の1月2日に亡くなってしまった。
明治32年生まれ、 登記上の名前は、古谷錬二、当時は名前を変えるのが流行っていたのか、古谷錬介で通していた。
兵庫県の名門といわれる柏原中学を出て、早稲田に行き、卒業後は祖父が朝鮮で起こしていた電力会社太田電気に伯父とともに籍を置いていたのだろうが、祖父が早く亡くなって、二人ともまだ若かったので肩書だけで、実際は周りの人たちに援けられての経営だったのだと思う。
http://nekonote.jp/korea/old/fukei/tejon/denki.html
電力会社太田電気 についてはネットの中にこんな記述がある。その中に出てくる竹内清次郎さんの息子さんと太田の川の中にいたというのが私が覚えている自分の人生の最初なのである。
http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/0eb1fe9ca92e259185492739fdc97367
『私の人生 川の中で始まった』
私は明石の上ノ丸で生まれたのだが、気が付いた3歳のころには既に太田の社宅にいた。そして南鮮合同電力という会社になって、父もその時に京城に移ったのだと思う。なぜ移ったのかなどはよく解らない。
今どきの父と子供の関係のような楽しさや笑いなどは殆どなくて、父に遊びに連れて行ってもらったり、ましてや遊んでもらったことなど皆無であった。妹たちに言わすと『トモダチばかりと遊んでいて、家で食事に行こうと云っても、私だけが参加してなかった』ようである。
そんなことで、特に父との想い出みたいなものはないのだが、単純に『好きか嫌いか?』と聞かれたら『母よりは父のほうが好き』だったと思う。
何故か?と云うと、親戚や周囲の人たち、特に伯母などの父の評判が非常によかったので、『いい人』なんだろうと、勝手にそう思っていた節があり、自分もそう言われるようになりたいと思ったりした。
その父が、私が小学生時代に絵を描いていたのは鮮明に残っている。
書は橋本海関に、絵は橋本関雪に習ったというのが自慢で、自らの号を『素雪』と称し、暇があれば絵を描いていたように思う。
日本画だが、それも結構大きな絵を本格的に描いたりして展示会に出展していたりした。
橋本海関、関雪が明石の出身で、遠い姻戚だったとか、関雪さんの絵は家にいっぱいあって、それと同じ構図の絵もいっぱい描いていたのを思いだす。
この色紙の絵は、妹がくれたのだが、多分戦後引き揚げてからのモノだと思うが、その構図は橋本関雪の絵からのモノだと思う。
いま、父のモノと云えばこの1枚の絵だけが残っているのと、持っていた鰐皮の財布があるだけである。
★父が私に残してくれたもの、と云ったら『何なんだろう?』
この1枚の写真。
伯父と父(右)明石の錦江ホテルの中庭で写した写真である。昭和15年(1940年)ごろの写真であろうから、父はまだ30代後半のころだと思う。
伯父、古谷脩一、通称古谷脩輔 と 父、この二人の影響を強く受けて、今の私があると思う。
二人とも50代の若さでこの世を去ったが、私が大学に行けたのも、川崎航空機に入社できたのも、伯父のお蔭と云っていい。自分の実力だけで大学に入学したり、川崎航空機に入社したわけではないことはよく解っている。
大学はちゃんと試験は受けたのだが、3年の1月2日に父が亡くなって、『もう金も要らなくなったから大学に行け』と伯父に言われて受験した大学なのである。碌に受験勉強もせずに、16.5倍もの難関を突破できたのは、不思議と自分でも思っていて、卒業間際に、野球部長の先生にちょっと話したら『君は県会議長が頼みに来た』と仰るのである。 それだけで入学できたわけでもないのだろうが、そんなこともあったのも間違いのない事実のようである
私が神戸一中に行ったのは伯父と親交のあった砂野仁さんが、ご自身の息子さんが神戸一中に入っておられたので、そこに行くことになったのである。ただ私は入学試験も受けずに入学していて、父からは『お前は無試験で入ったのだから、ちゃんと勉強するように』と云われたのである。
父の云うことは、ちゃんと聞くこと、なんとなくそのように育てられていた。そんなことを云われたのは1回だけだが、猛烈に勉強をした。神戸一中で50番以内を『特』というのだが、県一女と共学になる2年生までずっと『特』で通したし、10番以内に入ったこともあった。
これは人生で、私の自信に繋がっている出来事なのである。3年生以降男女共学になって後は、殆ど勉強らしいことをする必要もなく、全く勉強などはしていないし、成績もダメなのだが、中学2年間の成績が『やればできる』というおかしな自信になっているのである。
もう一つ、父に言われたこと『男は言ったことに責任を持て』 これはずっと守っている。
自分が言ったことに責任を持つために、現役時代、自分の言ったことはすべて『文字にして、文章にして残している』
あとで、『あの時言ったことは・・・』などという言い訳はダメだと思ったからである。この習慣は今でもちゃんと続いている。
間違ったら、素直に謝ればいい と思っているのである。
★私の人生は、いろんな方の援けは受けたが、影響は受けずに『自分の力』で切り開いてきたような気もする。
教えて貰えるような環境になかったことが、そんな生き方をせざるを得なかったのかも知れない。
そういう意味で、伯父のお蔭で生きる環境を整えて貰ったと思っているし、その中で生きた、『生き方』は父の教えを頑なに守ってきたと思っている。
贅沢を云えば、そんな好きな父に『甘えた思い出』が一つでもあればいいのだが、それが一つもないのである。
私は幼稚園には行っていない。これは小学校前多分6歳のころなのだが、父と二人だけの写真はこれしかない。
私が覚えている父は、いつもこんな感じで、最近の父親が見せるような、子供に甘い父親の影は微塵もなかったのだが、
でも私は、『父が好きだった』 そんな結果か、息子とは小学生時代から大学生の頃も、普通の人よりは多くの会話を交わしている のだと思っている。
そんな私の人生に、大きな影響を与えてくれた人、伯父と父のこと、書き残しておきたいと思って書いている。