★ 中学1年生は昭和20年(1945)4月に、朝鮮京城の城東中学に入学したのだが、未だ戦時中で学校にも行ったが、半分ぐらいは学徒動員で家の近くの山で松根油を採るための松の根を掘り起こしていたのである。8月15日に終戦になって、当然学校も終わってしまって
ちょうど夏休み中で『軍人勅諭の暗記』という宿題が出ていて、そろそろ暗記しなければと思っていたそんな頃だったが、それはこんなムツカシイ文章なのである。
我国の軍隊は世々天皇の統率し給たもふ所にそある昔神武天皇躬(みつから)大伴物部の兵(つわもの)ともを率ひきゐ中国(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(たかみくら)に即(つか)せられて天下(あめのした)しろしめし給たまひしより二千五百有余年を・・・・
戦争があと1ヶ月続いていたら、覚えていただろうか?
私の中学生はそんなことで『今のソウル』でのスタートなのだが、この辺りのことは、こども時代の自分史に譲ることにして、日本に引き揚げてきて、もう一度中学1年生から行き直したので、戦後、引き揚げてきてからをスタートとすることとする。
★ 終戦の年の12月15日、生まれ故郷の明石に引き揚げてはきたのだが、 明石上ノ丸は爆弾と焼夷弾で跡形もなく焼け野原になっていて、 伯父一家が疎開していた当時は全くの田舎だった伊川谷白水の借家に落ち着いたのである。
翌年になって当時は川崎機械の社長だった伯父の知人の砂野仁さんの薦めで、神戸一中に入学することになるのだが、何故か試験も受けずに入学することが出来たのである。 間違いなく『裏口入学』なのだが、 『お前は試験も受けずに入学出来たのだから、ちゃんと勉強するように』と、 父に言われたこともあって、よく勉強したと思っている。
ただ、この時代の通学は大変だったのである。
今はこんな立派な街になっているのだが、当時は田んぼと川以外は何もなくて、 毎朝田んぼの中の道を歩いて明石駅まで、上の丸に家を建てるまでの1年間ほど続いたのである。
そこから灘まで電車通学、更に灘からは通称『地獄坂』と称する急な坂道を上ってやっと学校なのである。
これはGoogle マップで現れる今の神戸高校だが、 形だけは昔のままで、当時はもう少し黒かったと思う。
当時から『名門神戸一中』と言われていて、 これが中学1年生当時、最後列左から4番目が私である。
これが中学2年生時代で、ここまでが『神戸1中』なのである。
『よく勉強した』と書いたが、それは神戸一中の2年生までのことである。 『特』という制度があって、学年の50番までの生徒をそう呼ぶのだが、 学生のレベルが揃っていて高かった中で『特』に入るのは大変なことなのだが、 ずっと『特』だったし、10番以内にはいたのである。
授業のスピードも早くて、そのレベルも高かったのだが、 よく頑張ったと思うし、よく勉強もしたのだが、 私自身、学生時代に『勉強した』と思うのは中学2年生までなのである。
中学3年生になると『男女共学』となって県一女と一緒になるのだが、 この時点で、特に英語・数学のレベルは1年程逆戻りしたので、 『勉強する』必要がなくなってしまったのである。
そんなこともあって、3年生からは野球部に入部することになるのである。 当時の神戸高校は野球も強くて春の選抜には甲子園にも出場している。 そんな野球部に入部したての頃の私である。
野球部に入ってからは、私の学生生活=野球部となってしまって、 中学も高校も大学でも『勉強をした』という記憶がないのである。 大学では教室にも入らなかったが、高校までは『勉強しない』と言っても 教室には入っていたのである。
そういう意味では私の学歴は『中学卒』かも知れぬが、 あの名門神戸一中で『特だった』ということが、 アタマはそんなに悪くはない、やればできると勝手にそう思って 生涯の自信に繋がっているのである。 別に『勉強する』ことが嫌いでもないので、 むしろ社会に出てから、 そして定年退職してからの方がいろいろ『勉強している』のかも知れない。
★ 神戸一中時代の想い出としては『天覧授業』を挙げねばなるまい。 それは昭和22年(1947)6月、戦後初の神戸行幸だったのだが、 ホントか?と思われるかも知れぬが、 神戸には陛下がお泊りになるホテルがなかったのである。
その宿舎となったのが神戸―中の3階の教室でそれを改造してお泊りになり、 私のクラスが『天覧授業』に選ばれて、 授業観覧とは後ろからとばかり思っていたら、 前からお入りになったのでびっくりしてしまったのである。
これがその時の新聞記事で、そこには『宿舎にもなった神戸一中』という 記事も残っている。
★ ここから先は神戸一中の同窓会の時、聞いた話でその真偽は解らぬが、
GHQが『なぜ天皇は神戸一中などに泊まられたのか?』と調べたら、 『あそこは英才教育をする学校だ』ということが解って、 そこから『高校の学区制』に繋がったのだというのである。 確かに、学区制対策は非常に厳しくて、 若し本当にそうなら、私はその『学区制』で、明石高校に変わることになったので、そんなことにもなった『昭和天皇神戸行幸』だったのである。
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