★事業というものは、そのトップだけではなくて、周辺のいろいろな人たちの支えで成り立っているものである。
ずっと昔のことだが『ある時代カワサキを支えた人』というテーマで Facebook にアップしたら沢山の『いいね』を頂いた。
そのリンクは、こちらで、20人ぐらいのFacebook に登録されているカワサキの人たちを挙げている。それぞれの職場で、それぞれの時代にカワサキをささえた人たちだと思っている。
その中のお一人、百合草三佐雄さんは、今週末開催される『カワサキモトクロスOB有志の会』の中心人物でもある。
その事務局を担当されている大津信さんが、このように紹介されている。
昨年11月、「KX40周年を祝う有志の会」を開催しました。カワサキ初の本格的モトクロッサー「KX」の販売開始が1973年。「KX」のスタートは百合草さんが組織化した開発1班からです。
『ある時代カワサキを支えた人』を投稿している、古谷さんはこう説明している。「百合草三佐雄さん、A1のアメリカでの現地開発や、レース、勿論二輪もジェットスキーも、アメリカの販売会社の社長も、 最後はジェットエンジン本部長も これくらいいろいろやった人は少ないと言っていいと思います。 アメリカのKMCがホントに立ち直ったのは百合ちゃんが社長の時代でしたし、ジェットスキーの400/500を450/550に新しくやり直してくれたのも彼なのです。 それで一挙に倍ほど売れるようになったりしました。何となく関係の深かった百合草さんです。」
長年二輪事業でいろいろ一緒に仕事をさせてもらった仲間は多いのだが、百合草三佐雄さんはその最右翼のお一人だと思っている。
私が百合草さんと一緒に仕事をしたのはほんの短期間だが、一緒にやった仕事の大きさとその質において群を抜いていて、その事実をご存知の方はカワサキの中でもそんなにおられないのである。
★今では事業本部の主力商品になっているジェットスキー事業だが、当時は明石の単車事業部は全く関係がなく、発動機事業部がエンジン生産し、アメリカのリンカーン工場に送りそこでジェットスキーに組み立て、KMCでアメリカ市場だけに売るいわば『子会社の製品』だったのである。これを何とか『川崎重工の正規の製品』にしようと言い出したのは、当時私と一緒に企画にいた百合草さんと同期の武本一郎君で、百合草さんと組んでいろいろ画策された結果が440,550となccとなり、それまで年間7000台ほどだったジェットスキーが一挙に15000台~20000台にまで拡大したのである。
さらにそんなジェットスキーをアメリカだけでなく、日本やヨーロッパにも販売すべく、企画室の中にジェットスキープロジェクトを立ち上げ、オーストラリアから戻った鶴谷将俊さんがそれこそ熱っぽく担当してくれて、世界展開が実現したのである。このジェットスキープロジェクトはカワサキの独占事業であったことからその利益性は抜群で、二輪事業の危機をその利益性で大いに補うことになったのである。
当時のアメリカ市場は、ハーレーのダンピング訴訟から、さらには国内のHY戦争がアメリカまで飛び火して、カワサキの二輪事業が生きるか死ぬかの大変な時代で、KMC社長には田崎雅元さん(後川重社長)が当たっていて、やっと年間黒字にはなったのだが、KMCには過去の38百万ドル当時の日本円に換算すると100億円近い累損があったので、『その累損消去をして文字通りKMCを健全な販売会社に再建する』と言うのが大きな目標だったのである。
本社財務本部が財務対策を、国内販社カワ販からは、冨永・日野くんという販社経営の実戦的なノウハウを持っているメンバーを送り込んで具体的にKMCの支援に当たっていたので、KMCの社長として一番に求められるのは、『リーダーシップ』と言うか全体を纏められることが第1だったのである。
そんな時期田崎さんのKMCの後継者候補に上がったのが百合草三佐雄さんで、彼は既に当時のカワサキのレース部門を海外・国内を含め、技術問題からライダー管理まで広い範囲でその体制を確立していたその責任者だったので、レース活動をまとめ上げた『百合ちゃん』なら大丈夫と思ったのだが、その期待通り、『KMCの累損消去』という課題は、KMC百合草社長時代の1989年に見事に実現したのである。
KMCの累損消去を達成して、当時の川重大西副社長以下関係したメンバーたちで神戸でお祝いをしたのをよく覚えている。当の百合草さんはアメリカだったので参加されなかったが、本社財務関係者や、事業部からは田崎さんなど当時このプロジェクトに関係された皆さんが参加されたのである。
私にとっての現役時代、KMCの累損消去は一番の大仕事だったので、そのムツカシイ目標を実現してくれた『百合草三佐雄』さんには今でも大いに感謝なのである。
このKMCの財務対策の成功が、その後のカワサキの二輪事業の安定に大きく繋がっていて事実1990年代には、カワサキの二輪事業の本格的な安定期に入りZEPHYR などの好調もあって、それまで川崎重工業の中でお荷物であった二輪事業が様変わりして大庭浩社長、高橋鐵郎副社長さらには田崎雅元社長など単車関係者がその中枢に名前を連ねることになるのだが、それはひとえに主力市場アメリカのKMCの経営安定にあって、そういう意味で百合草三佐雄さんの果たされた役割は\大きかったのだが、この辺のことはカワサキの方でもほとんどご存知ないのである。
★この週末には百合草さんを中心に、『カワサキモトクロスOB 有志の会』が盛大に開催されることになっているのである。
歴代のカワサキファクトリーのライダーや関係者は勿論、Z1開発責任者でカワサキの初代のレース監督大槻幸雄さんも、かってKMCを支えた種子島、斎藤さん、当時の川重の労働組合委員長の井上さんも、国内Team Green の創始者平井稔男さんも、当時平井さんと一緒にレースに関係し,今は国内二輪業界の重鎮として諸活動を展開している吉田純一さんに加え、今回は『有志の会』とその幅を広げたのでホンダのファクトリーにおられた渡辺さんも、堀ひろ子さんと一緒に女性で初めて鈴鹿サーキットを走った腰山峰子さんなど、カワサキファンの方もいっぱいだし、産経新聞の記者さんや、それこそカワサキのB7の時代からカワサキ一筋に、今もなお現役の二輪新聞の衛藤誠さんもご出席のようである。
文字通り『ある時代カワサキを支えた人たち』の集まりなのである。
私はたまたまアメリカのKMCのすぐ近くのIrvine に遊びに来ていて、残念ながら出席できないので、こんな百合草さんのカワサキの昔話を改を含めて、改めてアップしているのである。
ご盛会を心から祈念したい。
★NPO The Good Times のホ―ムページですの