★2007年74歳になった年だが、この年から私の新しい人生が『実質的にスタート』したその初年度だったと言っていい。
今までの人生73年と全く違ったそんな生活が始まったのである。
この年から私の当用日記は、今までの3年連続のものから新しく『大型5年当用日記』に変わったのだが、そのスタートにこのように記述しているのである。
『この日記最後まで書けるであろうか? 今と同じぐらいの元気さで書き終えたいと思う。昨秋9月9日にスタートしたブログは、果たしてどのように推移するのであろうか? いろんな新しい人との出会いが楽しい。今年もまた新しい人の出会いがあるのだろう。・・・』
今思い返してみると、74歳の頃の方が将来5年先に一体どんな感じになるのか、全く予想が付かずに心配していたように思うのである。それから11年の年月が流れて、後期高齢者になってからの生活にも慣れて、『老い』と言うものの進行も鍛えさえすれば、それほど衰えることもない現実を経験した今の方が何となく、『何とかなるようになる』と言うようなところがあって、あまり心配もしないようになってしまったのである。
前年ブログを始めて、このネットの世界と言う『新しい世界』の全く予想もしない『数々の現実』が目の前に現れ始めたのである。
前の年の9月にブログを始めたら、11月には思いもしない『樋渡啓祐武雄市長』と突然出会って驚いていたら、年が明けて2007年には初めての経験の連続で、その一番最初が、『ブログへの写真の貼付』だったのである。
元来、私は全くの技術オンチだから、ネットの世界の新しいことなど、自分ではなかなかできなくて、当時はリンクを貼ることも、写真の貼付なども全く未知の分野だったのだが、たまたま正月に遊びに来ていた息子の方の孫の仁に写真の貼り方を教えて貰って、下の写真が私のブログの記念すべき最初の写真なのである。
その時はまさに天にも昇るような気持ちになったことを今でもよく覚えているのである。
これは後、Snipping Tool が使えるようになってからの写真だが、日時にあるようにまさしく2007年1月1日のブログなのである。
★ こんな写真や、リンクなどと言うネットの技術的な経験も初めてだったし、今まで何の関心もなかった『三木市政関連』では、市長メールでいろいろと提案したら、逆に頼りにされてしまって、三木市長の薮本吉秀さんから、『2月1日に会いたいと』いう申し出を頂いたりして、当方からは三木市役所の若手の方ともお会いしたいと申し入れたら、16人もの有望若手職員の方が集まって、『三木のイメージの向上』に関しての座談会のような雑談会があったりしたのである。
この時、お会いした若手の方たちとは、その後何年も継続して、いろんなことをやるきっかけとなったし事実いろんなことが起きるのだが、三木市長さんからは、その時にはすでに私とは繋がっていた、佐賀県武雄市の樋渡啓祐市長と繋いで欲しいということになり、薮本市長が2月14日に武雄市を訪ねられて、三木市と武雄市は提携関係となり、職員の相互乗り入れなどが実現したのである。
こんなことになったのは、かって樋渡さんが市長公室長をされていた『高槻市のやり方』を『三木市の市長メール』でつぶさにご紹介したからなのだが、そのご本人の樋渡啓祐さんとは、5月28日の樋渡武雄市長の三木市訪問の時に、私も初めてお会いすることになったりするなど、予想もしないようなことが続いたのである。
★ブログをスタートしたことで、その中で取り上げた『カワサキ単車の昔話』は単にユーザーだけでなく、専門紙のネットなどにも取り上げられて訪問者も増え、いろんな二輪関連の方たちと繋がったのだが、中でも 三木市のアネックスパークを舞台に、ヴィンテージモトクロスイベントON ANY SANDA を主宰されている方からのコメントで、旧い昔のレースライダーたちとも再会することになるのである。
モトクロスということで永く疎遠になっていた、山本隆くんとの再会があり、https://blogs.yahoo.co.jp/motoyrs_spl
さらに彼の勧めで2月4日には大阪であったMFJの近畿地区「ふれあいパーティー」に出席したら、金谷秀夫・和田 将宏 ・吉村太一・田中隆造・北川 圭一 というホントに懐かしいライダーたちに会えて、一挙に私の二輪の世界が復活したのである。
久しぶりに会った金谷秀夫は、この時カワサキZ1会のゴルフコンペに誘ったらすぐ入ると言って、この年6月6日かっての金谷のメカニックを務めた藤原良さんなどと同じ組でラウンドしているのである。以来金谷はZ1会には以後何年も参加し続けていたのである。
この時の私のスコアはもう一つだったが、5月にあった硬式野球部と軟式野球部のコンペでは40:42で優勝などしてるので、未だその頃はそんなスコアで回れていたのである。
そして、4月22日には、三木アネックスパークのON ANY SANDA に山本隆を引っ張りだしたら主宰者は大喜びで、山本隆のためにF21Mを都合してくれて、思いもしない荒井市次くんとの一騎打ちが実現したのである。
これはその時の写真だが、当時のブログにこんな風に書いている。
『元、全日本モトクロスチャンピオン、荒井市次70歳、山本隆63歳。
本当にその走りは素晴らしく、40年以上経った今も、昔のままと思えるレベルに近い走りを展開して、観る人みんなが驚いたと思う。
メインレースの浅間では、二人が他の出場者を完全にぶっちぎってのバトルを展開した。二人の現役時代の凄さをよく知っている私には、昔そのままの荒井と山本がそこにいるように思えた。』
荒井市次くん、この2年後に惜しくも逝ってしまったが、彼にとっておそらくこれが最後のレースになったのだろう。
彼はヤマハだったが大阪出身で現役時代から、カワサキにも遊びに来てたし私は何となく繋がっていたのである。かって山本隆くんが未だ新人の頃、日本のモトクロス界は、久保和夫・荒井市次のお二人がその頂点にいてみんなの目標だったのだが、そのあとを引き継いだ山本隆との一騎打ちは、昔を彷彿させる素晴らしいものだったのである。
★ 同じくカワサキの二輪関連なのだが、私の後のレースマネージメントを引き継いでくれた『故岩崎茂樹くんのこと』を書いたブログには本当に沢山のコメントが寄せられたのだが、その中のお一人が『登山道夫』さんなのである。
その時寄せられたブログのコメントである。
このコメントが寄せられたのが、2月8日なのだが、登山さんの三木のお宅を私が訪ねたのは、5月14日のことで、登山さんとのお付き合いは、ここからスタートしているのである。
それからもう11年の歳月が流れているのだが、この登山道夫さんとの『出会い』が三木の緑が丘と言う同じ町内であったし、登山さんが熱烈な『カワサキZ1のファン』でもあったことから、いろんなことが始まり、その後の NPO The Good Times などの活動も若し、登山さんとの出会いがなかったら、実現はしていないと思っている。
登山さんはあまりネットのことなど詳しくない『私のネットの先生』もして頂いていて、私のネットの知識の、ベースの部分は全て登山さんから教わったものだと言っていい。定年後に始めたパソコンだが、私は『パソコン教室』などには一切行っていない独学だが、先生に代わる人や機能は、結構ちゃんと準備はしているのである。
★ この年から、ネット関連では 前年スタートしたブログもこのgoo のほかにExcite ・Yahoo・FC2・むらブロなど、いろいろやってその機能の特徴などもチェックしているし、Mixi に誘われてスタートしているのだが、秋には兵庫県が支援するSNS『ひょこむ』に参加して、そこに『カワサキワールド』なるグループを立ち上げ、文字通りカワサキのユーザーたちを誘って、『ひょこむ』の中ではTOP グループを形成し、この主宰者の和﨑宏先生とも繋がったりするのである。
そしてこの秋以降のいろんな活動はこ『ひょこむ』ベースで進んだのである。 https://hyocom.jp/
今も尚登録は、あるのだが、その後 Facebook などの出現があって、殆ど活動はしていないのだえる。
何事も、やりかけるとどんどんハマっていく性格で、この年にはブログに、SNSに完全にハマってしまっているのである。
★娘の孫たちはアメリカ、未だ娘婿がノーリツに務めているころで、この年も夏休みに孫たちと1ヶ月ほど帰省し、その帰りには家内が一緒にアメリカに渡って、この年は『1ヶ月半』にその滞在が伸びたりしているのである。
この年、三木にはビーンズ・ドームが出来た年である。
今年中日に入った松坂がアメリカレッドソックスでデヴューした年でもあり、大阪に橋下徹さんが府知事に出馬するかしないかと騒がれた年でもあるのだが、兎に角私にとって特別の年となったのである。