★ 来年は明石城築城400周年を迎えるそうである。
明石は本籍だし、明石公園のすぐヨコで生まれたので、明石城も明石公園も懐かしい沢山の想い出のある地なのである。
昨日は明石駅のホームから明石城を眺めた時、その眺望を妨げていたケーブルが除去されて、綺麗な写真が撮れるようになったというニュースが流れた。
自然を保ち、景観を維持することは大事なことだと思う。
邪魔なケーブルがなくなってよかった。
明石城の方から駅の方向を逆に眺めるとこんな眺望になる。
これは私が撮った写真だが、ビルの向うに見えるのは淡路島である。
昭和25年の天皇陛下行幸の時は、昭和天皇はここから前の芝生に集まった市民に手を振られた。
これは昭和29年当時の眺めだが、駅前にビルなど建っていないから、淡路島も望める眺望になっている。
昭和天皇がご覧になった明石の景観もこんな感じだったのだろう。
これも私の写真だが東の方を見ると海も淡路・明石大橋も見える。
こんな広大な明石公園なのだが、戦時中の空襲の際には明石市民がこの公園に逃げ込んだのに、そこに爆弾・焼夷弾が落ちて多くの市民が命を失ったのである。
私が子供の頃の明石公園は高い松がいっぱいだったのだが、みんな空襲で焼けてしまったのである。
それから70年、松以外の広葉樹はいき返って今の明石公園の姿になっているのである。
戦前の明石公園と検索すると、こんな背の高い松がいっぱいの明石公園が現れた。
現在と全く違う景観だが、こんな私の小学生時代の『明石公園』が懐かしい。
明石城は『錦江城』と呼ばれている。
明石の景観は、須磨と並んで『白砂青松の明石・須磨』と称されていたのだが、海岸にも背の高い松林があったからだが、これも全部消失してしまったのである。
戦前は伯父がその名も『錦江ホテル』と言うこんなホテルのオーナーで、外人客などもよく来ていた観光地だったのである。
こんな大きい背の高い松林だった。この左手はまさに白砂の砂浜が続いていたのである。
今はなぜかみんな埋め立てられて、この海のあたりが『明石市役所』になっているし、この松林あたりに海岸線の道路が走っている。
こんな昔の明石を語れる人も少なくなってしまった。
ちなみに、この『錦江ホテル』は太平洋戦争が始まって川崎航空機工業で飛行機の生産が盛んになった時、軍の宿舎として接収されてしまったのである。
その時の川崎航空機の総務部長が後、川崎重工の社長をされた砂野仁さんで、そんなご縁で私はカワサキにお世話になったし、川崎航空機が明石にあったので、明石は大規模な空襲に会い、明石公園の松も、中崎公園の松林も消え失せてしまったのである。
明石に限らず、日本にはいい自然がいっぱいである。
ぜひ、その景観を守っていける世の中であって欲しいし、大事にする行政であって欲しい。