★昭和55年、1980年代に入って、この年には こんなニュースが並んでいる。
■第1回の全国規模のホワイトデー開催 ■日本の自動車生産台数が世界第1位 ■巨人の長嶋監督が辞任、王選手引退 ■モスクワオリンピックが開幕(日本はボイコット)80年代『バブルの時代』と言われる好景気の時代だったが、カワサキの二輪事業はこの年あたりからさらに深刻さを増す状況に入っていくのである。
前年末に高橋鐵郎さんは理事に昇格されたし、私は川崎航空機入社の同期の中で、ただ独り『部長昇格』となって、評価して頂いたのはいいのだが、『ただ独り』というのは何となく『いやな気分』だったのである。
ずっとカワ販に永く出向していたこともあって、『部長』などと呼ばれたのはもう5年以上も前の話だし、前年からは『常務』と呼ばれていて、今更『川崎重工業の部長』と言われてみても、そんなに嬉しくもない心境で、ホントに職位などには全然興味がなかったのである。
この年の1月には、川崎重工業の『関係会社社長会』にも出席しているのだが、当時の川重の関係会社の社長会の出席者と言えば、今とは全く違って元川重の副社長・専務・常務など役員経験者というお歴々ばかりなのだが、カワ販社長が現役常務の塚本さんであったことから私が出席したのだが、お歴々の中でただ一人若いのがいるそんな状況だったが、それまでに本田宗一郎さんと同じ会議にも何度か出席したりした経験もあって、『ビビったり』することは殆どなかったのである。
二輪事業が大変な時期に、FXのお蔭で国内だけが順調だったものだから、事業部というより本社筋での評価がよかったのと、現実に国内グループの常務をしていたので、そんな結果になったのだろう。
話のついでに、
部長昇格したので、2月初めに『新任部長研修会』なるものが行われ、川重の副社長を務められ、今は髙橋鐵郎さんのあと、相信会会長をされてる同期の小野靖彦さんなどと同じグループでグループ討議など行ったのだが、その討議のグループ発表テーマをお前の話はオモシロいからと『単車事業』にされてしまったのである。
討議はともかく、その発表資料は私一人が纏めざるを得なくて、他の6人の人たちは何もしなかったのだが、その代り私は研修中の酒代の負担はなく『タダ酒』を飲ませて頂いたのである。
その時の資料が残っているのだが、以下のように書かれている。
『与えられたテーマの纏め方としては、幾つかの纏め方が考えられたが、次の理由により古谷部長の説明された『単車事業』とすることに決め同部長より発表することにすることにした。
単車事業は製品企画・開発・生産・販売の各分野が同等のウエイトで重要性を持ち、経営全般にソフト思考で研究する好材料と思われたこと。単車事業は当社の中で大きなウエイトを持つ一方でかなり異質的で、この機会に他班のメンバーに説明することが有意義であると思われたこと。』 などとグループの人たちがうまく理屈をつけて、私一人での発表となったのである。
確かに、単車を除いては、川重はすべて受注事業だから『単車の話』は異質で経験のない分野だからなかなかオモシロいのである。
単車事業を担当している人たちが、開発・生産の専門分野はともかく、販売分野を含めた『二輪事業全般』について喋れるメンバーは、当時は『限られていた』ので、このような全体の話を聞く機会などはなかったのは間違いないのである。
私が喋ることができたたのは、『10年間のカワ販への国内販社出向』という経験があったからなのである。
★ 『単車事業』 とは、その冒頭の資料がコレである。
ご覧頂いたらお分かりのように、
40年も前のことなのだが、最近、Facebook やブログなどで私が言ってる『仕組み』や『仲間づくり』や『社会との繋がり』はこの時点でも既に言っていて、『単車事業とは』私なりに このようなものだと思っていたのである。
この発表時は本社人事・企画・財務などの役員さんもおられて、大西常務からは『非常によく解った』とお褒めのお言葉を頂いたのだが、同時に『ほかのメンバーは何をしてたのか?』との質問もあったのである。
この発表は、単車事業が注目を浴びていた時期でもあり、結構話題になったようで単車事業のトップにも話が伝わり、その説明をさせて頂いたこともあって、その資料が残っていたりするのである。
二輪事業を1枚の表に纏めているのだが、これは私の恩師、小野田滋郎さんからの教えで、きっちりと理解していることは『図示説明』できるはずだと仰るのである。
いい加減なことを言うと直ぐ『お前の言ってることを図示説明してみろ』と言われてしまうのである。そんな陸軍士官学校出身の小野田滋郎さんの厳しい指導がこんな時に役に立ったと思っている。(小野田滋郎さんはあのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんである) われながらなかなかよくできたと思っている。
★ この年の3月末の常務会にはこのような CMC計画 が上程されていて、事業部内ではまだ検討が続けられていたのである。
これは Compact Mortor Cycle 小型車プロジェクトで、もう数年前から吉田専務を中心に検討されていたのだが、アメリア中心・大型車中心の事業展開を進めてきたが、その肝心のアメリカが不調で、将来もっと量が見込める『小型車の分野』への進出を目指していたのである。
ただ当時の私の本音を言うと、小型車の完成車プロジェクトなど、カワサキの販売体質では既に中大型車向きの販売網となっている先進国市場では『大きな事業利益』などになったりはしないと思っていて、若し小型車をやるなら、CKDで「新しい市場」に新しい販売網」をセットする『開発途上国』でなら何とか競争になると思っていたので、5年前、私が企画の時に、『開発途上国市場のCKD事業』を提案し、結局は高橋さんと一緒にこのプロジェクトを担当推進することになったのである。
東南アジアでは既にGTOなどのヒット商品も世に出て、事業も好調に推移していたのだが、その他の完成車市場では『小型車』はまだ、陽の目を見ていなかったが、この年の9月には翌年発売されたAR50・80の試乗会が中山サーキットで行われたりしたのである。
ただ、この車も格好も性能もよかったのだが、眼を見張るほどの販売実績には繋がらなかったのである。
★ この年の大きな問題はやはりKMC対策で、KMC自体の損益も芳しくなかったのだが、その影響が事業本部にも及ぶような状況になっていたのである。
当時は発動機出身の山田社長が浜脇さんのあとを引き継がれたのだが、単車部門としては単車出身のメンバーでの対応がMUSTということで、『私の名前』などもいろんなところで上がっていて、特に本社筋では国内のカワ販が堅調なのでいろんな方から打診があったり、アメリカ担当の田崎さんなどからも、いろいろと相談があったりして、騒がしかったのである。
私自身は、現役時代自分自身の異動については、自然の流れのまま、与えられた職務をただこなしていただけで、それは常に『自分流』に思う通りにやれたのだが、進路の希望などは一切言わないことにしていたのである。
いろいろあった問題だが、この年の末あたりには、この問題は高橋鐵郎さんと田崎さんコンビで担当する方向となるのである。
★この年も未だ、Z400FXが好調でカワ販の経営も前年に続き好調だったのだが、10月に ヤマハのXJ400 が出た途端に首位を奪われてしまうのだが、2年間は何とか安泰であったのである。
そして翌年4月にはホンダが CB400 を発売し、400㏄市場は激戦区となっていくのだが、カワサキは運よくこの2年間を切り抜けることができたのである。
二輪業界の競争の熾烈さは、本当にすさまじくすぐ追いついてくるのである。
この当時は、すでに国内の50ccのモペット分野では 『HY戦争』は、始まっていたのだが、50ccのないカワサキは『関係ない』と安閑としていたのだが、この『HY戦争』が、翌年あたりにはアメリカ市場にまで広がって、その煽りも受けてカワサキの二輪事業は大変なことになっていくのである。
★たまたま今日、当時直接『ハーレーダンピング』を担当していた田崎雅元さんから、こんなメッセージが届いたので、ご紹介することにする。
カワ販の組織改編の引き金となったハーレーのダンピング訴訟について、私の記録を調べてみました。 ご参考までに!
アメリカ大使館、経産省経由で訴状、質問状を受け取ったのが1977年6~7月、資料提出が1978年3月、ワシントンでのヒヤリングが9月。
結果的にはカワサキのリンカーン工場が米国産業と認められ、ハーレイと共に、日本企業による米国企業の被害は無いということで原告のハーレイが敗訴、ダンピング課税は無しという事で落ち着きました。
カワサキの立場は微妙で、ワシントンのヒアリングでも座席は、原告ハーレイとインデアン(日本車のダンピングで事業から撤退させられたと主張)、被告の日本3社に対して「その中央に設定され」、初頭からハーレイの「リンカーン工場はエンジンアセンブリイを日本から輸入している日本企業である」という主張と戦うことになりました。
日本3社はカワサキに「リンカーン工場は米国産業で、ダンピングによる被害を受けている」と証言される事をとても気にしていましたので、過剰在庫の安売り合戦に歯止めをかけるために少し心配させるという戦術もとりました。
当時の『カワサキのリンカーン工場』は、田崎さんの記述にもあるように、非常に『微妙な立場』だったのだが、最終的には米国企業と認められ、そのリンカーン工場が『被害を受けていない』と証言したので『ハーレーのダンピング訴訟』は成立しなかったのだが、アメリカという国は、リンカーン工場をアメリカ企業と認めるなど『非常にフェア』だなと思ったのを思いだすのである。
他社3社が『カワサキがどのように証言するかを気にしている』とは私は当時の田崎さんから直接聞いていてよく覚えている。
いよいよ、翌81年からは、高橋・田崎さんがアメリカに渡ってのKMC対策時代に入っていくのである。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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