★昭和54年(1979)の出来事を見ていると、
1月1日- アメリカ合衆国と中華人民共和国が国交樹立。 1月31日- 江川卓が阪神と入団契約、即日、巨人の小林繁とのトレード成立。 5月4日- イギリス、保守党の党首サッチャーが首相に就任(先進国初の女性首相)。などと並んで
4月1日 - 川崎重工業が「Z400FX」発売。 と載っている。これは、カワサキの二輪事業にとっても、この年から国内の販売会社カワサキオートバイ販売を担当する私にとっても、非常に大きな出来事で、それは世の中の『出来事』の中でもそのように認知されていることは、初めて知ったが嬉しいことである。
いま見ても確かに『カッコよく』何か訴えるものを持っている。
★この時期の『カワサキの二輪事業』は、本当に大変だったのである。
主力のアメリカ市場は、一時の勢いを失っていたし、『ハーレーダンピング』の対策で、第2の市場国内も極端な構造対策を余儀なくされて、この年の1月1日からカワサキオートバイ販売は、その本社を東京から明石に移し、その本社陣容は極端に縮小して、未だ46歳川重の課長職であった私が常務として旗を振ることになったのである。
そのカワサキオートバイ販売も、その経営内容は大変で、累積損失の上に『不表現損失』と言っていい含み損も含めて10億円近い赤字を有していて、与えられた命題は、期間損益の健全化とその累損消去だったのである。
従来、経験豊かな田中誠社長以下、先輩方が苦労してもなかなか難しかった国内販社の経営がそんなに簡単に立ち直るとは思えなかったのだが、現実はこの昭和59年の1年間で、ほぼ累損も消去できるような実績を残すことになったのである。
それはひとえにこの 『Z400FX』の販売利益によったもので、この年はこのような全国6社体制としていたのだが、それを担当していた人たちの努力などではなかったのである。
私を含めて、現場第1線の責任者たちも、ただ生産され送られてくる『Z400FX』を販売店に配ってさえいればよかったような状態で、値引きもないし、営業努力などは皆無だったのである。
私がもし、『努力したこと』があったとしたら、バック・オーダーを幾らかでも埋めるべく、当時は生産課長をしていた武本一郎くんに直接頼んで、生産台数を幾らか増やして貰ったことぐらいなのである。
武本くんは企画時代私の下にいたので、直接『無理が頼めた』のは幸運だったのである。
★二輪事業の経営で、直接的に一番利益に貢献するのは、機種であることは間違いなくて、そういう意味では『開発』の占める意味は大きいのだが、周囲の環境の『運』みたいなものも大いに影響するのである。
特に二輪車は、その競争性が高く、幾ら『いい車』でも、その時若しホンダ・ヤマハ・スズキがそれ以上のマシンを持っていたら、それは『いい車』にはならないのである。
私自身は、そんな運に恵まれていて、営業を担当したその時期時期には、東北時代の90cc中間機種、大阪時代のW1とZ2,そしてこの時期の Z400FX 、そしてずっとのちもう一度国内市場を担当した時は、あのZEPHRYでホントに恵まれていたのである。
ただ、その機種を『いい車』として売り続けるためには『造り過ぎない』ことが鉄則で、多くの方たちがつい『造り過ぎて』しまうのである。一端過剰在庫になると、そこには『値引き』が発生するし、販売するための販促経費も発生して、昨日までの『いい車』が一転その性格を逆転するのである。
それは、バック・オーダーとか、世の中の人気が曲者で、何百台のバック・オーダーだとかいうのだが、それを信じるからダメなのである。ユーザーは車がないとなると、あちこちの販売店に行くものだから一人のユーザーのバック・オーダーが2台や3台に化けていて、造り過ぎると一瞬にバックオーダーは『過剰在庫』となってしまうのである。
何度このようなことを繰り返したのか? これは人災でそれも得てして『頑張ろう』というその時のTopの判断が原因だったりするのである。
★この年は、二輪事業が大変で、その一つが『国内対策』であったのだが、そんなこともあって『国内販社経営』問題は本社マターでもあったことから、毎月本社の財務担当の大西常務への報告が義務付けられていて大西さんや堀川さんに報告していたのだが、4月のFX発売以降、どんどん良くなるものだから、アメリカと比較されて『国内販社への信頼』は非常に高いものになったのである。
この年の終わるころには、累損の消去も目途が付いて、大西常務から『昨年、計画を出した時点でこのようになることが解っていたのか?』というご質問を受けたりしたのだが、そんなことではなくて、全く運がよかったのである。
ホントにこの年のカワサキの中・大型機種の売れ行きは素晴らしくて、ずっとホンダさんとシェア競争できるレベルで月別ではトップシェアとなったこともあったりしたのである。
★この年から2,3年は、国内市場に没頭していて、国内以外にはいろいろと関係のあったアメリカ以外のことは、殆ど頭になかったのだが、この年の記録を見ると、レース、特に、ヨーロッパのロードレースは、カワサキのレース市場でも最高の時代だったと言えるだろうが、残念ながら殆どその実態を気にするほどの『余裕もなかった』というのが事実なのである。
その記録を見る限り、開発市場国ではGTOが売り出され、これもZ400FX以上に売れた機種だから、国内と東南アジアは好調だったのだが、未だアメリカの不振を肩代わりするほどのものではなかったのである。
ただ、レースの分野では、コーク・バリントンや、ハンスフォードの名前も見れるし、KR250・KR350の最高の時代で両シリーズとも『メーカー・チャンピオン』を取っているという輝かしい実績なのである。
それなのに、殆ど覚えていないので、以下は推測なのだが、
この当時、レースに深く関わっていたのは、アメリカでは百合草三佐雄さん、ヨーロッパでは英国の社長をしていた内田道男さんである。お二人とも、現役時代親しくして頂いて、『百合ちゃん』『内ちゃん』と呼ばしていただいた仲である。
そして、『カワサキのレースを支えた』と言える実績を残されたお二人なのである。
内田さんはメグロからカワサキに来られて、国内市場を担当されていたのだが、『カワサキが初めて鈴鹿を走った』ジュニア・ロードレースでは、カワサキファクトリーのライダーはロードレースの経験がなく、山本隆くんも初めてのロードレースだったので、北陸からロードの経験のある塩本君を派遣してくれたりしたのである。後、カワサキがヨーロッパ市場を開拓するに当たって、川重に移籍しイギリス・ドイツの販社設立に尽力され、自らは初代UKの社長をされたのである。
そして当時は、UKにレース運営の本部を置き、ケン・鈴木さんなどと一緒にヨーロッパのGP を支えていたそんな時代だったのである。私は当時は全くレースとは関係がなかったので、『ケン・鈴木』さんともずっとのち『カワサキの想い出・そして未来』でお会いするまで面識がなかったのである。
百合草さんは、『カワサキZの源流と軌跡』に自ら書かれた記事の経歴を見ると、72年にレース監督とある。
カワサキのレース監督は初代が大槻さん安藤さんと続いて、この時期はそのマネージメントをカワ販の私が担当し、そのあとメグロから来られた糠谷さんの監督時代はカワ販の岩崎茂樹くんがライダー契約などマネージメントを担当していたのだが、その次の百合草さんが監督をされた時代に、それまで製造部に属していたレース職場も技術部に移り、アメリカを含めてのレース担当部門となったのである、モトクロスマシンで言えば、それ以降KXという名称が使われているのである。
この年はKMCのR&D担当の時代で、アメリカのポリスバイクなど担当してたのかなと思っている。
このレースでの快挙が、カワサキの二輪事業の好調な時期であったら、もっと大きく全事業部として取り上げられていたのだろうが、とても、そんなことを言ってるような雰囲気でなかったほど『大変な時期』だったのだと思うのである。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/