★昭和50年(1975)10月、10年間に亘る国内市場への出向期間を経て、川崎重工業単車事業本部企画室企画課長に復帰したのである。
カワサキの二輪車経営は、アメリカ市場中心で大きく伸長したし、『アメリカでの成功』がなかったら、三菱や富士重、新明和のように二輪事業からの撤退を余儀なくされたであろうことは間違いない。
アメリカ販売会社のスタート以来、その経営を担当された浜脇洋二さんは、アメリカ人の二輪経験者を中枢に据えるカワサキ独自の『現地主義』経営で、販売だけでなく技術部門も、リンカーの生産工場も一番先に実現した積極経営で、どんどんと業容を延ばされたのである。
その間、A1,H1,Z1などアメリカ人たちの発想が色濃く入った名車が開発されて、Kawasaki のブランドはまずアメリカ市場で確固としたものになるのである。創立以来順調に業績を伸ばしてきたそんなKMCではあったが、1973年以降のオイルショックの影響などもあってようやくその経営にも陰りの見えてきた時期だった。
急激にその経営規模を延ばしてきた二輪事業は、川崎重工業にとっても、今後の経営の方向は大きな課題で、その対策として川崎重工本社の財務部門の堀川運平さんが自ら企画室長として来られ、さらに吉田俊夫専務が直接二輪事業を担当されて、今後の長期経営構造計画を策定し進む方向を定めようとしていたのである。
然しながら、吉田専務をはじめとするTopの方々は、従来の受注事業としての経営については豊富な経験をお持ちなのだが、量産事業で且つ末端市場での販売部門を自ら持つ、二輪事業経営については全くの未経験なこともあって、私など企画新人の発言にも、耳を傾けて頂いたりしたのである。
そんな私の企画での担当業務は、『その長期構造計画の立案』だったのだが、企画室に戻った時点では既に、生産管理部門を中心に『小型車生産構造計画』なるものが具体的に立案されていて、画期的な生産構造で小型車をどんどん生産すれば低コストの二輪車が出来るので、50万台を売ろうと言う全くの『生産指向的な計画』が立案されていたのである。
そしてこの計画に乗っておられたのが『吉田専務』だったのである。
★当時の会社の書類と言うのは、すべてが『手書き』だった。公式の会社の資料といっても、それは『私自身の発想』であり、私の自筆の書類なのである。
50年の秋10月に復帰して、4ヶ月目の1月には、既に発本戦略を纏め、企画部長、堀川室長、青野副本部長までの了承を取っているのである。
その発本戦略を纏めるにあったって基本的に思っていたのはこんなことだった。
● 企画に来てまず思ったのは、既に立案されている『小型車生産構造計画』などダメだと思った。
● 仮にそんな車が造れてもカワサキにはそれを売る販売網などどこにもない。
● ただ、もう進行中のプロジェクトで吉田専務も気に入っておられる計画だから露骨にダメだなどとは言えないのである。
● 『小型車』はそのまま生かして、開発途上国のCKD市場の小型車でスタートしようとしたのである。
● この小型車は同じ小型車でも、100㏄前後のオートバイタイプでCKDだから基本的に明石での生産投資は不要である。
● 中大型車と違って、結構数も読めるはずである。
この辺りの戦略を当時の営業部と打ち合わせて4ヶ月目には報告書に纏めたのである。営業部長が かってカワ販の販売推進部の上司であった矢野昭典さんだったから、信頼もあったしスムースに纏めることが出来たのである。
当時の私のグループは東大出の武本一郎、その下は後二輪事業部の事業本部長も務めた森田進一くんなど英才ばかりだったから、私独特の意見の理解も早く、数値資料などはがっちりと纏めてくれたのである。
★そんな1年の動きを月ごとに纏めたのが次の表で、これは私個人のメモみたいなものだが、この表の中からもカワサキの事業の動きが読み取れるのである。
1月には『発本戦略』として単に生産構造だけでなく『経営全体』特にマーケット状況を纏めている。
2月には、田中部長が推進していた『生産構造計画』の纏めを手伝っている。自工会企画部会の佐藤英明氏とあるのはホンダの佐藤さんのことで、なかなかの人だったが、何となく気が合って、長くお付き合いが続いたのである。後年、杉沼浩さんをMFJの常務理事にお願いした際、引き受けてくれたのが佐藤さんなのである。
3月には、『小型車に関する考察』と言う論文を纏めている。これはあとでちょっとだけ資料をお見せしよう。私にしか書けないといっていい独特の論文である。 10年間のマーケットへの出向が効いていて、事業部Topから一字句の修正もなく承認されたものである。
4月 種さんはドイツが決まった。 調査団の団長は最初は大槻幸雄さんが指名されたはずだが、ミスターHPの大槻さんは小型車などと断られて、高橋鐵郎さんに変わったはずである。先日大槻さんご本人に聞いてみたら断ったと言っておられた。
5月~6月 台湾ータイーインドネシアーイランーマレーシヤと約1ヶ月の現地調査、その報告書などすべて一人で纏めた。
メンバー 高橋鐵郎団長、安藤佶郎副団長、川崎芳夫、山辺昂、松田与市そして私 と案内役に多賀井クンの7人そして秋には『市場開発室』と言う新しい部門が出来て、高橋鐵郎さんが技術本部長のまま市場開発室長を兼務されたのである。
この1年は、私が建てた『仮説通り』に進行して具体的なプロジェクトとしてどんどん動き出したのである。年末には私もその一員として企画から1年で異動してこのグループでは文字通り高橋さんを支えて中枢として動いているのである。
『企画がエリートコースなら、自らそれを捨てる道を選んでいる』、『1年間の企画は勉強にはなったが情熱は湧かなかった。本当の意味で企画の中枢に返り咲く日を楽しみに』などと本音を書いている。
★前述した『小型車に関する考察』と言う私が書いた当時のトップへの報告者だが、この報告書によりこの1年が動いたといってもいい。25ページにわたるものだが、事業全般を総括したものであり、結構ちゃんと計算して、戦略的に持論を展開しているのである。
その最初のページの書き出しである。
若し問題があれば、ご指摘下さいと申し上げたのだが、一字句の修正もなく、報告書通りに承認されたので、自由に具体的に自分の思う通りに動けたのである。
そして最後の纏めで、受注産業のメーカーとして 発展してきた川崎重工の一番の『不得意分野』の販売会社を含めた事業展開の経営理念などを指摘しているので、Top としてもただ聞くだけで『よきに計らえ』ということになったのだと思う。
私のカワサキに於ける40年間は、端的に云えば『カワサキのブランドイメージの高質化』活動であったと言い切れるのかも知れない。
業界で『暴走族はカワサキだから、二輪車のイメージ向上は川崎さんで』などと冗談で言われたりしたのだが、結構私はマジメに取り組んだのである。