★明石高校のOB会 自彊会 という。
学校や、運動部、会社など、所謂 OB会はいろいろあって、いろんなところからお誘いやら、年会費の徴収などの連絡があるのだが、この数年はどこにも出席していないし、年会費なども払っていないのである。
年会費などもお払いしていないのに、こんな同窓会誌が送られてくる。
ページをめくっていると、物故者のページがあって、
そこに野球部の1年上のキャプテン新納啓蔵さんと、同期のキャプテン藤井仁司の名前を見て、ホントに唖然としたのである。
後列右から二人目が新納さん、前列右から3人目私のヨコが藤井仁司である。
一番右の大きいのは、当時の1年生大塚健哉、川崎重工業にいたのでご存じの方もおられるかも知れない。
ここにいるメンバー一緒によくゴルフなどしていたのに、もうそれも出来なくなってしまった。
この写真の殆どの方がこの数年で亡くなってしまったのである。
明石高校の自彊会には入っていなかったが、野球部のOB会は、新納さんや藤井と昭和25年夏の甲子園に出場した3学年で10年以上続いたし、新納さんが 野球部のOB会長をされた時には、直接指名があって1年下の大塚健哉くんと一緒にその副会長として支えたりしたのである。
私の高校、大学での学生生活は、学校というより『野球部卒業』みたいなものだから、高校も大学も野球部のOB会にはちゃんと年会費もお払いしていたのだが、この数年は失礼していたのである。
★私が高校の頃は明石も『名門明石』で通っていたのである。
慶応のエース 山本治さんや、日生や全日本で4番を打ちタイガースに入団された大津さんなどもおられたし、同期のピッチャー溝畑圭一郎は夏の予選で『パーフェクトゲーム』を達成するなど、なかなかの選手もいたのである。
そして我々の年次は、所謂旧制中学の最終学年で、1年下は新制中学に行ってしまったものだから、当時の野球部で中学校の3年間、高校の1年生と4年間運動部の『最下級生』を経験した年次なのである。
そのためか、『辛抱する』ことも覚えたし、高校2年になって初めて下級生が入部したのだが、下級生に対する『思いやり』みたいなのがあって、なかなか仲のいい同期のメンバーだったのである。
それが一人減り、二人減りでもう残り少なくなっていたのに、OB会の中心で世話をしてくれていたお二人が居なくなってしまったのである。
そんなこともあって、複雑な想いで今回は『自彊会だより』を綿密に目を通してみたのである。
多分、昭和30年ころの明石の写真もあった。
いまはもうなくなってしまったのか『明植堂の丁稚羊羹』の看板も懐かしい。
こんな旧い明石の写真も出てきたのである。
私は昭和8年生まれだが、昭和12年から16年ぐらいの明石のまちはよく覚えていて、明石はやはり『生まれ故郷』という感慨を持っている。
明石公園のすぐ横に住んでいたので、未だ明石のまちに高いビルなど建っていないこんなお城からの眺めも懐かしい。
昭和25年には、昭和天皇の行幸があって、お城の上かから下に集まった人たちに手を振られたのである。
今はこんな感じに変わっているが、こんな写真がすぐ現れるのも、
明石高校の夏の予選の応援に来た帰り
こんなブログをアップしていて、その中の写真の1枚なのである。
http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/fb0ee889089d6e6efcd625eac6445d2e
ついでに、こんな写真だが、
昭和31年ごろの明石駅である。
このころは、よく明石球場で練習していて、大学の野球部の連中が、『駅を出た前に踏切がある』と手前の山陽電車の踏切を珍しがるのである。
私などは見慣れていて当然だと思っていたのだが、言われてみると確かに珍しいのかも知れない。
★そんなこんなで、『自彊会だより』に同封されていた年会費の払込票を持って、初めて学校の同窓会の年会費を払ってきた。
併設中学校だった神戸一中の神戸高校も、神戸商科大学、今は兵庫県立大学も同窓会会費など払ってはいないのだが、何故か何となく、新納さんと藤井のことを知らせてくれた会報にお礼の気持ちみたいなのがあったのである。
年会費などは払ったことはないが、OB会には出席したりはする。
●小学校は朝鮮京城の桜ケ丘国民学校だが、このOB会があって全国から集まったりするのである。これには2度ほど出席したことがある。
●神戸一中の同窓会も毎年行われていて、これも2,3回は出席したことがある。
●明石高校の 4回卒業のOB会も舞子ビラで開催されていたのだが、この1,2年案内もないので、ひょっとしたらOB会自体が開催されなくなってしまったのかも知れない。
だんだんとそんな年代になってきたのである。
明石は生まれ故郷だし、カワサキの二輪事業も明石だったし、何となく一番ご縁があるので、大事にしたいと思っている。