★昨日は、明石キャッスルホテルにこんなメンバーが集まった。
『カワサキZの源流と軌跡』の執筆者たちである。
みんなカワサキの創世期を支えたメンバーたちと三栄書房の小林社長である。
この本が発刊されたのは、Zの40周年を記念したものであったのだが、
カワサキの二輪事業がいまあるのは、アメリカ市場での成功があったからであることは間違いない。 世界の名車と言われるZの開発も、当時のKMCのアメリカ人たちと日本の技術部門等との協働があったからである。
今年はそのKMCの創立50周年に当たるのである。
集まったメンバーたちも当時は今より50年も若かったのだから、一番年長者の浜脇洋二さんや大槻幸雄さんですら、当時は35、6歳だったのである。
★当時の川崎航空機自体が戦後の空白を経て、再開された若い企業であったからか、会社全体に自由に動ける雰囲気があったのだと思う。20代、30代の人たちが自らの判断で、結構大きなことを任されてやることが出来た、そんな環境がよかったなと思っている。
当時のトップは、若い人たちに自由に仕事を任せたところがあったし、若い連中もガムシャラに動いたところから『カワサキ独特』の自由なムードが生まれたのだと思う。
昨日も正午から3時まで、昔話も含めて途切れることのないトークが続いたのだが・・・
カワサキだけでなく、二輪業界自体が若かったのかも知れない。
150社を超えるメーカーが林立した時代からほんの少ししか経っていない時代だった。
その中には三菱重工業も、富士重も、ト―ハツも、ブリジストンという大企業もいたのだが、何故かこんな大企業は、大企業ゆえの重たい動きで、ホンダ、スズキについていけなかったのである。
当時はヤマハとカワサキがどちらが先に止めるか? などとの噂が流れたりもしたのである。
そんな状況の中で、ヤマハはともかく、カワサキが残ったのにはそれなりの理由があるのだろうが、一言で云えば『大企業的な動きではないモノ』を当時のカワサキの二輪事業は持っていたと思うのである。
★昨日は、Zの車体を担当した富樫さんが、私のヨコにいた。
彼はメグロからカワサキにやってきたのだが、『カワサキに行っても多分何もさせて貰えないだろう』と思ってカワサキに来たという。ところがそんな雰囲気は『全然なかった』と言っていた。
当時のカワサキの技術屋さんは大槻さんにしても、百合草さんもエンジン屋で車体など何にも解っていなかったのである。もっと極端に云えば、オートバイが解っていなかったのかも知れない。
そんな当時のカワサキを援けてくれたのはメグロの技術屋さんであったり、KMCのオートバイに詳しいアメリカ人だったのだと思う。
その人たちがみんな若かったのである。
カワサキだけでなく、ホンダもスズキもヤマハも、みんな若かったのだと思う。
昨今、二輪業界もカワサキも、そんな雰囲気、オモシロさに欠けていると思うのだが、それはまともな大企業体質に近づいているのかも知れない。
昨日集まった人たちは、50年経った今もなかなか若々しいのである。そんな体質が身についていると言っていい。
3時間、途切れることなく続いた会話の中の、ほんの2分ほど、一番大人しかった会話の部分かも知れない。
それでも、何となくいい雰囲気なのである。
このブログのカテゴリーは『カワサキワールド』 カワサキの世界、それは独特のものを持っていると思っているのである。
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