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日本モーターサイクル史

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★つい先日出会った松浦健児さん https://www.facebook.com/profile.php?id=100004717816348&fref=ts

から、日本モーターサイクル史という1945年から2007年までの戦後の二輪車の歴史を詳細に纏めた冊子をお借りしました。

八重洲出版創立50周年記念企画で発刊されたものです。

 

昭和20年、終戦直後からスタートしています。

自転車にエンジンをつけた、エンジン付き自転車からスタートした国内の二輪メーカーは何社あったのか解らないほどの数でした。

私自身は、技術的にもそんなに二輪に詳しくはないのですが、昭和20年がちょうど中学1年生ですから、この時代の変遷と、たまたま川崎航空機で二輪事業スタートの時代から関わったので、非常に懐かしくこの冊子を見ることが出来ました。

     

  

 

 昭和20年代や昭和30年代は、二輪メーカーの数は100社を超していたのですが、

モ―タサイクルを扱う専門誌は、この八重洲出版のモ―タ―サイクリストと、モーターマガジン社のオートバイの2誌しかありませんでした。

 

  

  

 この冊子の冒頭の記事を大久保力さんが書かれていますが、

カワサキが二輪事業をスタートさせた当時、 その新機種のテスト記事はモ―タ―サイクリストが大久保力さん、

オートバイ誌が横内一馬さんという大モノお二人が担当で、私は当時広告宣伝課にいましたのでよくお付き合いしたものです。

 

その当時のレースは、MCFAJがむしろ先行していて、こちらはモ―タ―サイクリストが、あとから追っかけたMFJは、オートバイ誌が色濃く関係していたのです。

 

 

 このB7がカワサキが一貫生産で発売した最初の機種です。

私は、この機種から担当しましたが、この機種のフレームが今で言う大クレームで、毎日何十台もの返品があり、物品税の戻入のために毎日税務署の方とのお付き合いだ続きました。

昭和36年1月には生産台数より返品台数の方が多くて、生産台数がマイナスになったりしたのです。

若し次のB8が出なければ、青野ヶ原でのモトクロスの優勝がなければカワサキも多くのメーカーがこの事業から撤退したように、撤退していたことは、間違いありません。

私の人生も、全く違ったものになったのだと思います。

 

当時はカワサキもこんなモペットがあり、デザイン賞を貰ったりもしました。

モペットと言えば井関農機の空水冷のエンジンのモペットも生産していました。

 

 

 

 この冊子には、いろんなオモシロイ二輪車の写真がありますが、

これはホンダの自転車にエンジンをつけたCub 号です。

この写真を見るのは私も初めてです。

 

  

 

川崎航空機は、二輪生産に入る前には、歯車生産は非常に高い技術を持っていて、ホンダさんにもミッション用の歯車を提供していたようです。

ホンダさんも一時厳しい時期があったようで、私が入社した昭和32年には、ホンダのバイクが何台もありました。

資金繰りが苦しくて、現物で頂いた、などと言ってましたが、真偽のほどは解りませんが、ホンダのバイクは私の所属した財産課にもありました。

ミッションは当時から東洋工業にも、いすゞ自動車にも販売していた、主力事業でもありました。

 

1250ページもある分厚い冊子ですから、ちょっと時間をかけて見せて頂こうと思います。

 


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